ハーメルンの笛吹男

 色とりどりの衣装と、笛の音。

 笛吹男の奏でる旋律に、ネズミたちは魅入られた。

 なんて美しい音だろう。なんておもしろい踊りだろう。

 目が離せない、離したくない。

 そして気づけば川の中。

 どぼんと、落ちても抗えない。

 こうして笛吹男は、ハーメルンの人々との約束通りにネズミ退治に成功した。

 笛吹男は約束を果たした。

 それなのに、ハーメルンの人々は彼に報酬を払わなかった。


 気持ち悪い男め!

 お前などに払う金などないわ。


 笛吹男を罵る町の大人たち。

 それを見ていた子供たちは、笛吹男を哀れに思い、慰めた。


 大人たちに怒った笛吹男は、笛を吹く。

 美しい音色、おもしろい踊り。

百三十人の子供たち。

 きゃーと笑って、歩きだした。

 笛吹男の歩く先。

 町外れの洞窟の中。

 真っ暗闇の先にあったのは、希望の楽園か。それとも……?

 

 笛吹男は消えた。子供たちと一緒に消えていった。


 ◇◆◇


 サティのゆるやかな旋律が、店内に流れる。学校帰りの小学生を横目で確認しながら、莉花は読み終えた絵本を棚に戻した。

 携帯で”ハーメルンの笛吹男”を検索する。

 ああ、本当に元になった事件がある。

 いくつかのサイトに飛んで、情報収集を試みる。しかし、なかなか文字が頭に入ってこない。


『莉花さんは八年前の被害者ですよね?』


 そう聞かれたとき、本当に驚いた。

 自分のことをピンポイントで調べれば、調べられる事実ではあった。しかし調べればその痕跡が残るのだ。特に女子のネットワークは小さな異変も莉花に告げてくれるから、真一郎はまだ何も知らないでほけほけついてきているのだと、思い込んでいた。

「気持ち悪……」

 別に、誰がどう思おうと関係ない。どうでもいい。

 それなのに、ちらちらと脳裏によぎる、彼の瞳。全てを見透かそうとする大嫌いなまなざし。

 こっちを見るな、ストーカー。

 ウサギの帽子を深くかぶり直して、莉花は頭を一つ振る。

 私は……人形だ。

 感情が乏しく、執着は薄く、だから、なにかに振り回されることはない。

 自分に言い聞かせて、莉花は苦笑した。それは本来ならば言い聞かせるまでもない事実だったから。

 あいつも、同じ人形だったのに。

 彼をはじめて見たとき、自分と同類だと確信した。

 そつなく人と接しているが、基本的に人間に興味はない。好き嫌いはあるが、特別想い入れを持たない。

 愛情の種を持たない人の姿をした、モノ。

 同類を見るのは初めてだったから、莉花は珍しく興味を覚え、真一郎と接する内に好ましく思った。

 彼は莉花が知る限り、一番頭がよかった。

 ちょっとした会話でも思いがけない答えを返したり、都合が悪いときは察し良く引く。

 刺激的で、ちょうど良い距離感が心地よかった。なにより同類の存在は、莉花を孤独から救ったのだ。

 でも……彼は裏切った。

 いつも冷静な双眸が熱を帯びていることに気づいた、あのとき。

 あのときのことは思い出したくない。


 人形が人間に変わる瞬間なんて見たくなかった。


「消えちゃえ」

 思わず零した声音は低く冷たく、莉花の耳に響いた。

 最悪な気分だった。

 彼のことは考えない。私にとって大事なことは別にある。

 そう言い聞かせてもなかなか頭を切り替えられず、諦めて今一番気になることを片付けることにする。

 いつから、あいつは私の過去を知り、どう思っていたのだろう。

 やっぱり可哀想な子? ……だったら、笑える。

 八年前の事件で誘拐された七人の少女の内、一人は雪の中で冷たくなって発見され、残りの六人は親元に帰ってきたと聞く。駅のホームや発見されやすい店先に置き去りにされているところを、保護されたそうだ。


『ひどい目にあったわね。なんて可哀想に』


 あの頃、判で押したように同じ台詞が繰り返された。しかし、莉花はつらい想いをした覚えはなかった。

それは私だけじゃなくて、他の子たちもそう。

 一度、事情聴取のために警察へ出向いたとき、同じ事件の被害者と控え室がいっしょになった。互いに両親が二人付き添っていたから、特になにか話せたわけではない。ただ大人たちの壊れものでも扱うような対応に、戸惑っていた。別に暴力をふるわれたわけでも、ご飯を食べれなかったわけでもないのだ。

 ただ少し、知らない男の人と数日遊んだだけ。

 莉花の場合は誘拐されていたのは五日ほど。

莉花の他にも同じ年頃の女の子が誘拐されていたから、二人で雪遊びをして楽しんだ。つらい想いはまったくなかった。

 そう、あのときは楽しい気持ちしかなかった。だから……

『刑事さん、ごめんなさい。よく覚えてません……』

 だからあの日のことは、警察にも親にも話さなかった。犯人が捕まらなかったのは、他の被害者たちも証言を偽ったからかもしれないと、莉花は思っている。

「ハーメルンの笛吹男……」

 ふと、莉花は棚に戻した本を見上げた。真一郎が何を意図して言ったのかは知らないが、あのとき遊んだ人と絵本のイメージが被った気がした。


 優しく、笑う人だった。

 哀しく、遠くを見る人だった。 

 頭を撫でる手は暖かくて、心地よかった。


 莉花の両親はいわゆる仮面夫婦で、我が子の泣き声よりも世間体を気にする人だったから、大人からあんなふうに暖かな感情を向けられたのは初めてだった。

 真一郎に犯人を八つ裂きにしたいのかと問われたが、冗談じゃない。

 私はただ……

「その本、取りたいの?」

 後ろから声をかけられ、莉花は我に返る。

 振り返れば、見知らぬ青年がこちらを見ている。彼は莉花の返事を待たず、ハーメルンの絵本を取って、莉花に差し出した。

「あ、ありがとうございます……」

「えーと、迷子かな? お母さんは?」

 ……迷子って、この人、眼球死んでる? 今日の服装は子供っぽく見せてるけど。身長も小学生とそう変わらないけど、年は大して変わらないのに。

 おそらく、この男の人は二十歳前後だろう。

紺色のダッフルコートに細身のジーパン。靴は赤茶のデザイナーブーツで、カジュアルながらもお金のかかっていそうな装いだが、顔立ちが地味なのと姿勢が悪いせいで、あまり似合っていなかった。

 なんていうか、自信のなさを服装で補ってる感じ? 弱そうな子供相手に、親切の押し売り? 自己満足? うざ。

「お母さん、ですかぁ」

 考え事を邪魔された上、子供扱いにイラッときたが、莉花は笑顔で小首を傾げた。

「あはっ、大丈夫ですよ? 少ししたら、友達が来るので。心配してくれてありがとうございます~」

「いや、心配だよ。今この辺り物騒だからね。友達が来るまでそばにいようか? 俺はヒマだから、気にしないで」

「…………えー」

 気にしないでとか、逆に恩着せがましい。というか、これナンパ? ロリコン? 犯罪者? 社会のゴミ? 息吸わないでください。

 大丈夫だからねと手を振る青年を、莉花はニコニコしながら見上げる。どう追い払おうか考えていたが、ふと、青年のコートの袖口に目が留まった。

 袖のボタンは、後から取り替えたのだろう。アンティークっぽい銀のスクエアボタンで、丸くなった猫が刻まれている。柔らかそうな毛並まで表現された精巧なそれは、おそらくけっこうな高級品。それをさり気なくつけているセンスは、悪くない。

 曇りやすい銀の手入れもできてるし、真面目な性格? 苦労知らずそうだけど、本当に親切心で言ってくれてるっぽい……私には関係ないけど。邪魔だけど。目の前から消えてほしいけど。

 親切を無下に断るのは、可愛い女の子のすることではなかった。

「あ、可愛いボタン。猫ちゃんだぁああ!」

「あ、うん。君も猫、好き? このボタンの猫って、うちで飼ってる猫と似ててさ」

「私も猫ちゃん大好きです~ 家では飼えないから、猫カフェとかによく行ってて。あの子たち、みんな気まぐれなんですけど、ふわふわですごく可愛くて」

「わかるわかるっ。猫っていいよね! 我が儘なのに、突然すり寄ってきて」

「まっすぐ見つめられると、なんでもあげたくなっちゃいます~」

笑顔で対応する莉花だが、つまらないものに割く時間ほど無駄なものはないと思っている。だから、この世で一番嫌いな彼氏に、早く来い早く来いと念じていたわけだが……

あれれ、でも~ この状況ってけっこう美味しくない、かな?

ウサギ帽子の下の小さな頭で考えを巡らせ、莉花は善良な猫好き青年を見上げた。

「あのー、私、友達を待たすのは嫌だから、先にこの本を買いたいんですけど……」

「それはもちろん」

「でも、ここからお会計って見えない、ですよね。変な人がいないか少しコワくて……」

「……そう、だね」

「あのっ。ご迷惑じゃなったら、いっしょについてきてくれませんか? 一人だと心細くて!お兄ちゃん、カッコよくて頼りになりそうだから……ダメです、か?」

肩を震わせる子ウサギ少女に、青年はでれっと脂下がった。

「ダ、ダメじゃないよ! 俺がそばにいるから安心してっ。俺が守るからっ!」

 ……俺が守るって、どこの勇者の台詞? 馬鹿じゃん?

 とかなんとか、莉花は内心突っ込んだが、もちろん表には出さず、彼の不自然な力みは見ないふりをした。会計に向かう際のぎくしゃくとした歩き方や、視線の変化にも気付いたが、気にならなかった。彼には一欠けらの興味もない。

 ただ少し、自分の欠落を感じただけで。

 人間って不思議だな。なんでこんなことで浮かれられるんだろう? 誰かに期待したり、誰かを好きになったり。理解できないよ。

 ハーメルンの絵本を会計しながら、莉花は一瞬、遠くを見る目になる。

 ま、いいや。それより移動。

「あれ、そっちに何かある? 出入り口のそばは寒くない?」

「寒くないですよぉ。それにここなら、私のことを友達が見つけやすいから」

 書店の出入り口側の壁は一面ガラス張りで、外から中がうかがえる。当然、真一郎も莉花が知らない男と一緒にいることに気づくはず。

さて、一体そのとき、彼はどんな反応をするだろう?

当て馬の青年が飼い猫の画像を見せてくれたり、莉花の連絡先を聞き出そうとするのを、莉花はにこやかに対応しながら、真一郎の訪れを楽しみに待つ。

 ねえ、私の彼氏さん?

 私のことが本当に好きなら、どうか、傷ついてほしいな?

 傷ついて、傷ついて。

 私のことを嫌いになってくれたらいいのにと、冷めた心で願いながら、外の白い世界を見た。どきりとした。

 あれ……

 十メートル先に、真一郎が立っていた。携帯を操作しているのだろうか。俯き加減で動かない。

 その何でもない姿に、莉花はなぜか寒々しさを感じて、自分の腕をさすった。

「大丈夫? やっぱりここは寒いんじゃないの?」

「いえ……私は大丈夫、です。ちょっと、すみません」

 嫌な予感に突き動かされ、書店を出る。

 なんだろう、この感じ……

なぜか焦燥感を覚えたが、それを抑えて、莉花はゆっくり真一郎に近づいた。気配に敏感な真一郎は、雪を踏みしめる音が聞こえているはず。しかし、彼は顔もあげない。

 これは、何かの罠? 私を試している?

 彼の顔を覗き込み、莉花は目を細めた。

薄い唇がなにかを呟いている。いつも理知的で涼やかな一重の瞳は、何の感情も浮かんでいない。

彼は、また人形に戻ったのだろうか? 私と同じ? ……ううん、違う。

例えばここが電車を待つプラットフォームで、こんな目をした人がいたら、ああ、放っておけば死ぬんだろうなと莉花は思う。

そんな虚ろで冷たい闇が、真一郎の瞳にはあった。

 ただ莉花としては、彼が死んだところで悲しくはない。

 そもそも人形の自分にそんな感情などは持ちえない。しかし、何かに急かされるような衝動を感じ、莉花はおもむろに人差し指で真一郎の頬を突いた。

「えいっ」

 見た目よりも、柔らかくて温かった。

「……り、莉花さん? なにを、しているんですか?」

「んー?」

 彼の瞳から虚無感が消え去るのを待ちながら、莉花は首を傾げた。

この胸に広がる気持ちはなんだろう? 以前どこかで、これと同じものを感じた気がする。


『大丈夫……、私がいる、から……いっしょなら……』


ふとそれに思い至り、莉花は眉間に皺を寄せた。

「なーんだ、生きてるんだね。残念っ!」

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