ウサギロリータ
今年二度目の雪が降った連休明け。
真一郎が喫茶店の出口付近に立ち止まってから、十分が経過しようとしていた。
「もうわかったからっ!」
うっかり出てしまった母からの電話に、とうとう彼は音を上げる。
「ちゃんと食べているし、風邪も引いていないっ。冬物衣類は足りているし、電球も切れてないよ!」
母は真一郎が物心つく前から、家を空けることが多かった。そのせいか、息子が一人で暮らしていけることは知っているはずなのに、過保護だ。
そもそも、寂しがり屋な人なのだろう。
父のことも愛していたし、父がいなくなってからもその面影を真一郎に求める。
それを悲しく感じることはあっても、疎ましく思うことはない。
ただ、母が仕事の合間に突然よこす連絡は面倒だった。いつもはそれも己の義務として応えているが、そろそろ莉花がやってくる。
「他にないなら、電話切るよ。友人を待っているんだ」
『えー、なぁに? 真一郎、あなた友達がいたの!?』
……我が子を一体、なんだと思っているのだろう。
『安心したわー! あなたの人への接し方って、上っ面だと感じていたのよねぇ』
「上っ面……」
『正直、この子の中には冷たい血が流れていて、人になど興味はなくて、どう矯正しようか途方に暮れていたのだけど、本当にホッとした。今日のお酒は美味しく呑めそうっ』
「……そっかぁ、よかったね。僕は、無神経な母の言葉に胸がとてもとても痛むから、今日はこれで。さようなら」
『え、ちょ、待って……まだ話が……』
電源を切る。それとほぼ同時に、出入り口のドアベルが軽やかに鳴った。
「お電話、終わった~?」
莉花だった。
真一郎が電話をしているのが見えたのだろう。外で待っていたらしい。
「……入ってきて良かったのに。外は寒くなかったですか?」
「待ってたのはちょっとだよぉ。それより~……今日のオプションは、こんなところでどうかなぁ」
満面の笑みを浮かべて、莉花はピンクの爪で、もこもこの白い帽子を指さした。
「テーマは、ウサギロリータなのだよ?」
……今日もまた気合いを入れてきたなぁ。
莉花の耳をすっぽり隠す帽子には、長い長い耳がついていた。まるで、たれ耳ウサギのよう。
小さな身を包むのは、白いコートにキャメルのブーツ。
チェックのスカートから覗く健康的な太ももが目の毒だが、ウサギ帽子が彼女を幼く見せ、せいぜい中学生くらいにしか見えないため、何ともアンバランスな魅力である。
「眼福ですね。ありがとうございます!」
「どういたしまして。さて、今日はどこに行こっか~」
「駅前の書店を見た後に、デパートのおもちゃ売場などはどうでしょうか?」
慣れたやりとりはデートの相談のようだが、もちろん巡回経路の確認である。
あれから、五日か……
真一郎は一つため息をつくと、支払いをすませ喫茶店を出た。
◇◆◇
冷たい風に、細かな雪が舞い踊る。
曇天の下。いつもの見慣れた街は雪化粧のせいか、静謐な空気で満たされていた。その静けさを破るように、莉花はうーん、と唸る。
「やっぱり、さむーい。それに歩きにくいよ~」
舗装された道は除雪されているが、ところどころ薄い氷がきらめいている。ブーツの莉花は恐る恐る足を進めながら、真一郎の腕にすがりついた。
えーと、これも今日のオプションなのかな。あるいは本当に歩きにくいのか。
「莉花さん、今日はやめておきますか?」
「まさかっ。今日こそ犯人を生け捕りにするんだから~」
莉花はいつも以上に張り切っていた。昨日、また子供が消えたらしいと言っていたが、それが関係しているのだろうか。
それにしてもと、真一郎はしみじみ思った。
莉花の情報網は侮れない。八年前の事件についてはともかく、今回の事件の情報に関してはかなりの精度だ。
なによりその熱意には頭が下がる。下手をすると……
「本当に警察より先に、犯人を捕まえてしまうかもしれないですね」
お世辞ではなかった。この犯人が捕まるのは時間の問題だと、真一郎は感じていた。
毎日、午後三時から午後八時までパトロールを続けてわかったが、子供が一人でいることは珍しく、また夜でもあちこちに人の目はあるのだ。
誘拐は連続して続けるには難易度が高い犯罪だ。
八年前の誘拐事件は未解決に終わった。しかし、犯人が逃げきれた理由はきっと……
「ねえ、真一郎くん。なんで八年前、警察は誘拐犯を捕まえられなかったんだと思う?」
「警察が無能だったから、運が良かったから、犯行が巧妙だったから」
ちょうど考えていたことを聞かれ、真一郎はすらすら答えた。
「莉花さんはどう思いますか?」
「私はバカだからわかんないよ~ 頭を動かすのは真一郎くんの役目だよ? 巧妙な犯行って、どんな犯行? 子供に嫌がられたら、すごく目立つよね?」
「そうですね。でも、甘いお菓子をあげるって言われたら、素直についてくるかもしれませんよ?」
「もうっ、からかうのはやめてよ」
「からかってませんよ」
ただ、少しはぐらかしただけだ。
正解を与えることはできるが、それは自分の頭の中を見せる行為だ。馬鹿のふりで本心を見せない彼女に、そこまで誠実にはなれない。
「真一郎くんは、巧妙な犯行って言ったけれど……」
真一郎の苛立ちを感じ取ったのか、彼女は話し始める。
「私はこの犯行は行き辺りばったりな気がしてるの。そもそも八年前に警察の手から逃げきったのに、また犯行をはじめるなんて大馬鹿だよ」
大きな瞳で同意を求められ、真一郎は苦笑した。
「その意見は八割方、賛成ですね。行き辺りばったりという点も、馬鹿という点も、その通りでしょう」
「もったいぶった言い方をするね。それで? 残りの二割は、なあに?」
「八年前の犯人と、今回の犯人が同一とは限りませんよね?」
「え……そこ? でも、共通点はあるよ。身代金を要求しないことや、犯行を連続で成功させていること」
「それだけで同一犯と考えるのは危険です」
「この町で過去に起きた特殊な犯罪が、再び起きている。しかも前の犯人は捕まっていない。それで犯人が別と考えるのは難しいよ」
「誘拐はそれほど特殊な犯罪ではありません。誘拐犯が身代金を要求しないという点も、珍しくない。八年前も今回も、目的は子供なのでしょう。犯人の目的は特定できませんが。まあ、わかりやすい例をあげるとしたら、猥褻とか?」
白い帽子のウサギ耳が風で揺れている。滑りやすい足下を見ながら歩いているため、莉花の表情はうかがえない。
「でも……でもさ、誘拐を成功させ続けるのは難しいんでしょ? 成功させ続けているというだけでも、同一犯の可能性は高いんじゃないかなぁ?」
「たしかに難しいですが、子供が抵抗しなければ、難易度は一気に下がります」
「……それが巧妙な犯行ってこと? どういうこと?」
「うーん。例えて言うならば……ハーメルンの笛吹男、でしょうか」
「また、からかう~」
不満そうな声とともに、莉花に睨まれた。しかし、上目遣いで睨まれても、とてもとても可愛いだけだと真一郎は頬を緩めたが……
「ねえ、そんなに私の上段回し蹴りがほしいの?」
あ……やばい。
楽しげに、きらきら輝く大きな瞳。
食すためではなく、遊ぶために小動物を狙う猛獣のごとき無邪気な瞳を間近にし、真一郎は莉花から離れた。
「っ……か、からかってませんよ。ハーメルンの笛吹男の話を、莉花さんはご存知ないのですか?」
「えー、なにそれ。どんな話~?」
「ハーメルンで実際に起きたとされる連れ去り事件をもとにした童話です。その事件とは……」
「ああ、有名な話なんだ。それなら細かい説明はいらない。あとで自分で調べるから」
真一郎の説明を遮った声は、普段の可愛さを装ったものではなく、いささか感情的だった。
苛立ちの見え隠れする瞳に、真一郎は嬉しくなった。
「なにを……笑っているの?」
「言っても、蹴りませんか?」
「蹴るかもしれないけど言って? すごく気になる」
「理不尽だなぁ。女の子は自分を可愛くみせて何かを得ようとする生き物だけど、莉花さんは少し違いますよね」
「えーとぉぉ? ……言ってる意味がわかんなーい」
とぼけモードの彼女に、真一郎は笑った。
「悪いとは言ってませんよ。女の子は男より力が弱いのですから、正しい処世術です。ただ莉花さんはそこには当てはまらないのに、可愛く振る舞うのはいささか狡い気もしますが……目的がただ可愛い女の子を演じることなら、まあ、話は別かな、と」
「…………」
「では、本宮莉花さんはなぜ演じるのでしょうか? と聞いてみたところで、答えるはずはありません。しかし、予想はつきます。というよりも、仮面をかぶる理由など一つです。つまり……」
「自分に自信がない。本当の自分をさらけ出す覚悟がない、とでも?」
「違いますか?」
「それは、私のことじゃなくて、自分のことなんじゃなぁぁあい?」
「はて、莉花さんにはそのように見えますか?」
「うん、見える。真一郎くんは、全部が全部、胡散臭いかなぁ。私のこと好きって言うけどぉ、それもフェイクだよね?」
「いえいえ。そこは一片の曇りもない真実ですよ」
「あはっ。もう死ねばいいのに~!」
「……今、グッサリきました」
「ごめんねぇ。すっごく気持ち悪くて、つい、本音が~」
にこにこ笑顔で毒を吐く彼女は、すっかり調子を取り戻したらしい。
あーあ、もうちょっと本音を見せてくれてもいいのに、まったく狡いなぁ。
「ああ……そういえば、莉花さん」
真一郎は肩をすくめて、冬の空を仰いだ。
薄い雲に覆われた灰色の空に、吐く息が白く凍って上ってゆく。
「八年前の事件の犯人と、今回の犯人が同一と思っているのならば、八年前の事件のことも調べているんですよね?」
「もちろん。でも、昔のことだから、そこそこのことしか調べられなかったけど」
「そこそこ、ですか? ……例えば?」
「例えばって。資料に全部書いて渡したよぉ。読んでない?」
「もちろん読みましたけど。本当に大したことが書いてなくて、非常に、非常に、がっかりしたんです」
「あのねぇ、八年前のことだよ? 私はその頃、十歳だよ? 警察じゃないんだから、当時のことを知る人を探せなくても仕方がないじゃない」
「でも……」
真一郎は言葉に詰まった。躊躇いがそうさせた。
その問いは、猛毒だ。
致死量となるか、死に至らしめなくとも心に傷を残す。
駅前の繁華街に続く一本道。
背の高い建物に挟まれた道を、ひゅーひゅーと音をたてて風が駆け抜け、街路樹の雪を振るわせる。
ひゅーひゅーと。ひゅーひゅーと。
それはまるで、未練を残して死んだ者が生者を唆しているようだと、真一郎は冷ややかに思った。
「……でも、なあに? 言いかけたら、最後まで言ってよ」
「……そう、ですね」
風の音に背を押され、真一郎は重い口を開く。
「莉花さんは、八年前の事件の被害者ですよね?」と。
その瞬間、莉花の笑みが凍り付いた。少女は気の毒なくらいに青ざめて、ゆっくりと目を見開く。
なにも取り繕っていない素の表情が、少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しかった。
「……っ、なんで知ってるのっ!」
やっぱりと、真一郎は心の中で呟いた。
「違いますか?」
「聞いてるのは、こっちなんだけど? ううん、別に調べるのはわけないか。私のことを調べれば……小学校の同級生にでも聞けば、出てくる事実だしね……」
「……ええ、そうです」
ああ、やっぱり。
真一郎は笑った。
やっぱり、彼女はなにも知らない。
例えば、僕に妹がいたこと。例えば、父と母はまだ離婚していないこと。例えば……
「好きな女の子のことですからね。僕のことを調べても八十点の精確性で満足する莉花さんと違って、僕は莉花さんをよーく調べましたから。秘密の一つや二つ知っていますよ? 当然でしょう?」
「クソ気持ち悪い……」
嫌悪を露わにする少女に、一歩、近づく。
「だから、もっと知りたいのです、莉花さんのこと。なぜあなたは、誘拐犯を捕まえたいのですか? 正義感なんて、バカなことは言わないでくださいね。復讐ですか? 自分を誘拐した男を、八つ裂きにしたいのですか?」
僕はね……八つ裂きにしたいんですよ。
心の中でそう呟いたときだった。
携帯のバイブ音が鳴り響く。二人は黙り込み、先に動いたのは莉花だった。
「お電話、鳴ってるよ? ちゃんと出なきゃ~」
「いえいえ、イタ電です。お構いなく」
「えー、だめだよぉ。そ・れ・と・も、恋人の私の前で取れない電話なのかなぁ?」
小首を傾げる莉花。
真一郎は莉花から目を離さないようにしながら携帯を取り出し、一瞬、表示をチェックした。
母だ。なんてタイミングでかけてくるのだろう。
「あ、知ってる人からなんだね。それじゃあ、私、先に本屋さんに行ってるよ!」
「え……ちょ」
止める間もなく、ウサギが跳ねた。
たったっ、たったっ。
先ほどまでの危うい足取りが嘘のように、莉花は凍った道路を駆けてゆく。
「……さすが、体育会系」
よろよろ歩きは、やはりフェイクだったらしい。
呆れながら脱兎の莉花を見送ると、真一郎は携帯を睨んだ。
あと、少しだったのに。
「何、母さん!」
『ごめんね。さっきちょっと言い損ねたことがあって……』
申し訳なさそうな前置き。
その声に張りつめたものを聞き取った瞬間、真一郎は心臓に冷たい刃が突き刺さるのを感じた。
……ああ、そうか。
震え出す鼓動、足下がゆらゆら心許ない。
莉花さんの狡さなんて、可愛いものだ。僕の狡さと比べたら。
「母さん、どうしたの?」
何気ないふうを装いながら、背中にのしかかる罪の重みを意識した。
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