最終曲 しぐれどき

 九月の癖に夏の暑さが残る日だった。

 私はいつものようにバイオリンを背負い、楽譜を持つ。今日唯一違うのは私が書いた曲があるくらい。ずっと前に書き始めて、シグレのために書いた曲だ。

「田中さーん。部屋空いてますかー?」

「おう、佐藤くん開いてるぞ。今日もイチャイチャすんのかい? 儂の後輩がうるさくてうるさくて『私は何を見せつけられてんのか』っていっつもぶつくさいっててのお」

「イチャイチャしてません! 今日も使わせていただきます!」

 毎度のことだが田中さんの茶化しにはついていけない。

 重い防音扉を開ける。

「シグレ、いるかー」

 誰もいなかった。珍しい。いつもは私より早く来ているのだが。

 多分十分後には来るだろう。そう思って五線譜を取り出して、最後の仕上げに取り組んだ。


 気がつけば雨が降っていた。

 弱いポツポツとした雨だ。

 時計の針はとっくに十七時を回っていた。

 何度もLINEを送った。既読がつかないから電話も。でも黒い液晶画面は反応することが無かった。

「田中さん。シグレ、来ました?」

「あのべっぴんさんだろう? いんや来てないね」

「ありがとうございます」

 察してくれたのか茶化さないでくれた。

 私は気づけば走り出していた。

 ――そういえば途中、救急車が走っていたな。

 嫌な予感がする。

 足を早める。シグレの家は知っていた。少し前教えてもらった。

 雨なんて感じなかった。冷たい粒が逆に気持ちがいい。でも私に打ち付けるそれはかえって私の心を少しづつ侵食していった。

「ここか……!」

 『仁和』の表札。インターホンを押す。

 扉が開く。

「すいません。仁和シグレさんの友達の……」

「あんたが佐藤? ふーん。根暗そうな子ねぇ。シグレなら死んだわよ。交通事故で」

「ぇ?」

「居眠り運転にぶつかったって。あーやだ裁判とか葬式とかほんとあの子は面倒しかかけられないのか。そうだ、あの子のバックあなたにあげるわ。私もユウコもいらないもの。そんな道楽まがいの作曲なんて」

 シグレが死んだ?

「嘘、ですよね」

 酷く掠れた声が出た。唇も喉もカサカサに乾いて痛い。

「嘘じゃないわよぉ、やっぱり出来の悪い子はすぐ死ぬべきなんだわ」

「お母さーん。何してんのぉー」

「あらユウコが呼んでるわ、早く行かないと。ユウコはシグレと違って出来が良い子なの。あなたも勉強は頑張りなさいね。はーいユウコちゃん今行きますよー」

 バタン。鈍色の空にドアの閉まる音が淡く溶けていった。

 私の初恋は時雨時に細い雨に打たれ、風化してしまった。

 それからどうやって家に帰ったのか覚えていない。


§


 いつも通り私は音楽練習室に行こうとしていた。バックに筆箱と五線譜を詰めて。

「ねぇあんた勉強はしているの?」

 喧嘩したきりだった母から久しぶりに声をかけられた。

「してますよ」

 母のことは嫌いだ。父も、妹も。

 あの日から私は私のしたいことをするようになった。親の抑圧なんて全部無視して。

「してないでしょお、ユウコをご覧なさい? あの子毎日十時間も勉強しているのよ。それに比べてあなたときたら作曲家ごっこで遊んで、それに毎日男と会っているそうじゃない。私はそんなふしだらな子に育てた覚えはないわ」

 ああ。げんなりする。いつも私に説教するときはユウコ、ユウコ、ユウコ。天才で何でもできるユウコ。それに比べて私はできが悪い子。ああ、嫌になる。

「だいたい私はあなたにはもっと頭の良い高校に入ってもらいたかったのよお、そしたらあなたのためにもなるでしょお? いい大学に入って、いい会社に入社して。私は顔が広いからあなたの結婚相手だって探すつもりだったのに」

「……」

「ねぇシグレ。今からでも遅くないわ、今すぐ音楽なんか止めて勉強に専念しなさい。ああそう。ピアノは続けさせてあげるわ。女の教養として必要だもの」

 音楽なんか。そうだね、音楽は娯楽だ。私もそれに縋った。でも今は違う。真剣に心からの感情を五線譜に載せて発露する。それを好いてくれる人がいる。

 学校祭のときの喝采が頭にこびりついて離れない。

 コウセイの笑顔が、聴衆の驚く顔が。私は好きなんだ。

 だから、私は音楽を生業にしたかった。コウセイと音楽をやりたかった。

 「私は音楽が好き。あなたの人形なんかになりたくない。それに――」

 ――あなたにはユウコがいるでしょ。

「なっ、シグレ! 何を言っているの! 私はあなたの為を思って!」

「ねえお母さん。お母さんはいっつも私のこと『出来の悪い子』って言うでしょ? じゃあ私なんかに構わないでユウコのこと、お母さんの着せ替え人形にしたら?」

 絶句した母は面白いほど滑稽だった。

「では私は行きますね」

 母と話したせいで遅れてしまった。私は早歩きで音楽練習室に向かう。

 早くコウセイと恋人になりたい。

「コウセイに連絡入れないと」

 信号が赤になったので立ち止まってLINEを開く。

『ごめん。コウセイちょっと遅れ――』

「おい! 危ないぞ!」

 誰かが叫んだ。

「え?」

 顔を上げる。眼の前にあるのは猛スピードで走ってくる大型車だった。


§


 コッコッコッコッ。

 時計の音が静かな部屋に反響した。

 コッコッコッコッ。

 何度目だろう。何も考えずに寝返りをうつ。眠れない夜が君を忘れ去ろうとしている。思い出したくなくて、薄っぺらい破けてしまいそうな紙を記憶に糊で貼り付けた。

 コッコッコッコッ。

 時計の音が鬱陶しい。時折母が心配してくれたが、全て無視した。

 随分と身勝手だ。

 私の勝手なエゴが導いた結果だ。

 私の勝手な理想を主観で追い求めたから、壊れた。

 コッコッコッコッ。

 こんな時でも時計のリズムをとってしまう私が腹立たしい。

 君がいない音楽なんて私は知らない。

 いっそのこと永遠に音楽から遠ざかったら良いじゃないか。

 悪魔の囁きが私の耳朶を震わせた。

 のそのそとベッドから起き上がる。体中に後悔と自責と自嘲の鎖が絡みついていた。

 長いこと寝ていたから立ちくらみがひどかった。眠りすぎたせいで頭痛がひどい。

 遠くで烏が鳴いている。それすらも私を嘲笑っているようで、怖かった。

 机に無造作に置かれたカッターを手に取る。

 そのとき足が机にぶつかってシグレのバックから五線譜と筆箱が転がり落ちてきた。

dear Kousei愛するあなたへ

 五線譜を拾おうとしたとき、飛び込んできた言葉だった。

 丸い、小さい字。それは確かにシグレの字だった。

 それを拾い上げる。短い曲だった。

好晴こうせい

 曲名は私の名前が使われていた。

 カラン。私はカッターを落としていた。手が震える。心臓が悲鳴を上げた。

『これからもずっと音楽やろうね』

 右端に残されたメッセージ。走り書きの、短い。

 見えない水圧に埋もれそうだ。

 目頭が熱い。ぐしゃりと楽譜が少し曲がってしまった。

『好きだよ』

「う”っああ……」

 嗚咽が漏れる。こんなこと言われたら、私は――

「音楽を続けるしかっ……無いじゃないか……!」

 前を向こう。君のいない世界でも君に届くように、にむかって音を鳴らそう。

 君が生きていたことを証明するために、私は君のためだけに音を紡ぐんだ。


§


 私は、暗い牢獄にいた。

 でも目の前には明るい扉があった。

 立ち上がり、走り出す。一歩踏み出すごとに体が軽くなった。

 気付くと私は風になっていた。

 そのまま扉を開ける。

「シグレ」

 明るい光が私の目を刺す。そこは広い、広い、草原だった。ざあ、と風が吹き抜け、花びらがゆらゆらと舞った。君の白いフレアスカートが白百合のように揺れた。

 あの頃のままのシグレがいた。楽しそうにピアノを弾いていた。

「意外と早かったね。コウセイ」

 私の方を見てはにかむシグレ。その様子はどこか切ないように感じた。

「そうだな。意外と早く終わった」

 あっという間だった。あの後、我武者羅に練習した。何度も留年してようやく芸大に入った。そして、最後にはそ日本ではそこそこ名のはせたバイオリニストになった。

「シグレ。見てくれてたか?」

「うん」

「これからはずっと一緒だ」

「うん……!」

「シグレ。好きだ」

「うん。私も……!」

 ああやっと言えた。シグレは頬に涙を流して私に抱きついた。

「シグレ。も曲を書いたんだよ」

 どこか懐かしくて、惑うように幻想的で、跳ねるように楽しげで、ときに燃えるように熱くって。そして身を焦がす恋をして。

 時雨のように一瞬に過ぎる日々を私は曲にしてみたんだ。


『しぐれどき』


 前を向こう。そうしたらを待つ人がいるから。

 君と私がこの世界から消えてくなっても、私たちの音楽を紡ぎ続けよう。

 決して諦めないで。

 そうしたら必ず幸せが訪れるから。



                     fin.

                     thank you for reading.

常夏真冬

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時雨時に君を想う 常夏真冬 @mahuyu63

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