二曲目 ナニカを思う

 シグレと出会ったのは梅雨晴れの蒸すような暑さに滅入る、そんな日だった。

 水たまりに日光が反射しているのはそれはもう綺麗で富士山から顔を出す黎明のように綺麗だった、というのは嘘だ。

 それより公園のベンチに一人で座り込み、俯き涙を流している美少女に私は目を奪われてしまった。

 ほおっておいたら変な輩が近づきかねない。

 矮小な正義感が叫び、私は彼女に近づいた。

仁和にわさん。大丈夫?」

「佐藤くん、ですか?」

 端正な顔立ちから漏れる歪な笑みと涙で潤んだ瞳。濡羽色の髪は横日に照らされて儚いまばゆく蛍を思わせるほどだった。

 それはあの『モナ・リザ』や『ヴィーナスの誕生』に匹敵するほど幻想的で私は目を奪われてしまった。

「そうだよ。覚えてくれてたんだ」

「良かった。あっていましたね。私、クラスメイトの名前は覚えるようにしているので」

「さすが南が丘高校の優等生だな」

「もう、茶化さないでください」

 仁和さんはジト目で私のことを見る。

 彼女は一年生にも関わらず高校中に噂を広めた。その内容は約五十年間破られることのなかった入試の最高点数を大きく幅をつけて取ったやら、とんでもない美少女で一日に三十二人から告白をされて全部振ったやら。

 だが決してそれにつけ上がることなく先生からの信頼も厚い。それに私と違って人望があるため一部というか全校生徒から南が丘高校の優等生と呼ばれている。

 でも私は彼女の様子を見ているとなにかチグハグなような気がしていた。

「とりあえず涙、拭いたら」

 ポケットに入れていたハンカチを取り出す。

 なんだか恥ずかしくなってぶっきらぼうになってしまったが彼女は微笑を浮かべたまま受け取ってくれた。

「ありがとうございます。気が利くんですね」

 そんなことはない。私のこれは美少女にハンカチを渡すシチュエーションに憧れたからだ。つまり私の欲望の権化であり邪な感情で塗り固められたものでしかないのだがこうも純粋に感謝を伝えられるとむず痒くなる。

「どういたしまして」

 こうとしか返事ができなかった。

 そしてしばらくの静寂。

 五時近くの公園は人気が無く、パチンコ帰りのおじさんが公園の前を酔っ払いながら通ったきりだ。


 ――気まずい。

 

 なぜ私は彼女に話しかけたのか、少し前の私を小一時間問い詰めたい気分だ。

「佐藤くんは……音楽が好きですか?」

 唐突にぶつけられる問い。

「え……?」

 間抜けな声が喉から発せられた。

 音楽は好きだ。

「私作曲をやっているんです」

 ポツリと吐き出された言葉はすぐに雲がかかってきた空に消え失せた。

「でも、母に見つかって全部破かれました。楽譜」

 痛々しげに顔を歪め絞り出した声はきゅうきゅうと首を絞められて喘いでいるようなそんな声だった。

 私は何も言えないただの少年だ。

 眼の前にいる少女に励ましも慰みも何もできないことを私は悟っていた。

 だが私の中でナニカが叫んでいる。ナニカはわからない。でも何かしないといけないと思ったんだ。

「仁和さん。ピアノ弾ける?」

「えっはい。弾けますけど……」

「どこまで弾ける?」

「ツェルニー、ソナチネは全部やりました」

「わかった。着いてきて」

「えっちょっ!」

 仁和さんの手を掴み、走り出す。

 公園の時計を見たらまだ五時十五分。あそこは空いているはずだ。


 『ROMANCEロマンス NO.2 Ludwig van Beethovenルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン

 バイオリンの柔らかな優しい旋律から始まるこの曲。

 この曲は最初は流れるような旋律だが少しずつ変化し、高音から始まる荒々しいメロディとなり主題に戻る。最後は溶けるようなピアノの和音で締めくくるのだ。

 この曲を選んだ理由は無い。

 でもこの曲が仁和さんを変えるような気がしたんだ。

 私は教室で彼女をよく見ていたが(というか彼女が目立つだけなのだ)やはり無理をしているような気がしてならない。

 突然だが私の父は既に死去していて母子家庭なのでよく母の体調の機微には注意している。それが功を奏した、とは違うが他の人よりも鋭い観察眼が育ったのかもしれない。


「すいませーん。音楽練習室を使いたいんですけど」

 私たちは市の公共施設に来ていた。

 ここは茶室や図書館などの部屋があり色々な活動ができるのだ。

 私はよくここに来てバイオリンの練習をしている。

「はいはーい。おっコウセイ君じゃないか今日も来たのかい。いいよ使いな。どうせ誰も来ないんだから」

 出てきたのは初老の男性。田中さんだ。

「ありがとうございます。田中さん。でも利用料金は払いますよ、流石に」

「いいっていいって! 儂がまけといちゃる! それよりコウセイ君。後ろにいるえらいべっぴんさんは誰だい? もしかしてガールフレンドっちゅうやつか?!」

「違います。とりあえず鍵、貸してください」

 バッサリ。

 私は田中さんの囃し立てを無視し、音楽練習室に向かった。

「仁和さん。着いてきて」

 半ば強引に手を弾いて歩く。こういうときに自分のコミュニケーション能力の低さを呪いたくなる。もうちょっとうまい方法があるのかもしれないが。

 私は重い防音扉を解錠し、開ける。

 電気をつけてバイオリンを置く。

「仁和さん。ちょっと遊ぼうか」

 この日、シグレは変わった。そして弾く理由が分からなかった私も彼女のために弾きたいと思った。

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