時雨時に君を想う

常夏真冬

一曲目 コウセイとシグレ

 タッタッタッ。

 人気のない日曜の校舎に一人の足跡が反響する。

 窓からはグラウンドは見えないが野球部の威勢のいい声がここまで聞こえてきていた。

 着ている指定ポロシャツを剥ぎ取りたくなるような、茹だるような暑さに気が滅入る。

「……ほんっとあっついな」

 走りながら独りごちる。そうでもしないと暑さでどうにかなりそうだから。

 ガラガラと教室のドアを開け、入る。締め切られていた教室はより、蒸し暑かった。

「早くしないと」

 といっても自分の席だからすぐに見つかる

 早足で教室を歩き回り、自席からお目当てのものを引っ張り出す。

 白い表紙をした楽譜。左の上辺りに「KREUTZERクロイツェル教本」と書いてあるものだ。だがこれじゃない。それの隙間には二つ折りになって重なっている五線譜があった。

 私の目当てはクロイツェル教本ではなく五線譜。

 これがないと彼女に怒られてしまう。彼女は怒るととても怖いのだ。

 教室の時計を見ると十四時五十八分を指していた。待ち合わせの時間は十五時。

「ぜってぇ間に合わねぇ」

 ――こりゃ頭撫での刑に処されそうだな。

 額に浮かんだ大粒の汗を拭って私はまた走り出した。

「こらっ廊下を走るな!」

 巡回の先生の怒号を無視して。


 私が住んでいる市には公共施設内に音楽練習室があるのだが、私が精一杯全力で走りその場所に駆け込んだ。

 重い防音扉を開けると既に彼女がピアノを弾いていた。

 セミショートで整えられた濡れ羽色の髪。処女雪のようなシミのない綺麗な肌。そしてじっと私を見据えるハイライトのない目。

「すまんシグレ、待たせた」

「ん、大丈夫。でもどこ行ってたの? まさか私以外の女といたの?」

「違うよ、楽譜を取りに行ってたんだ」

「ふぅん」

 シグレは逡巡して「わかんない。確かめる」といって私の体に抱きついてきた。

 スンスン、と匂いを嗅ぐシグレ。目の前にある頭を私は撫でる。いつもの日課だ。

「コウセイの匂い。浮気チェック、終了」

 調査は終了したようだ。ハイライトも戻っていた。若干顔が緩んでいたのは気の所為じゃないだろう。

付き合って無いけどな」

「でもコウセイはモテる。気をつけないと」

「俺はシグレにしかモテたくないよ」

 頬を朱に染めるシグレ。

「今日はなにやる?」

 肩にかけていたバイオリンケースを机に置く。

 誕生日祝いに買ってもらったカーボンマックは私のお気に入りだ。

 三つある金具を外して開ける。バイオリンにかけてあるクロスをければ美しくニスが塗られた私の愛器が姿を表した。

 それに肩当てをつけて、弓に松脂を塗る。松脂は落としたらすぐに割れてしまうので注意が必要だ。自慢ではないが私は既に三回割っている。

「これ」

「ロマンスか、良いよ」

 バイオリンを構え、シグレに目配せする。

 ポーンとピアノの調律されたAアーの音が音楽練習室に響く。

 Aの音を合わせた私はAとDデー、DとGゲーそしてAとEエーという順で調弦をする。バイオリンの調弦の基本だ。ちなみにヴィオラやチェロも同じように調弦する。

「できた?」

「ああ。始めようか」

 私は譜面台の前に立つ。その上には先程の五線譜。

 すうっと息を吸って合図を出す。弦に弓を、鍵盤に指を。

 シグレの繊細で緻密な音色と私の音色が混ざり合い、音が踊り舞う。一種の幻想世界と言っても過言ではない、二人で創り上げる音楽。

 ちらりと見るとピアノを弾くシグレが見える。その姿は綺麗で、どこか儚くて。

 私はすっかり彼女に惚れ込んでしまった。

 多分、彼女もそうだろう。勝手な妄想かもしれないがそんな確信があった。


 ――もう少し待っていてくれ。


 これは私が彼女シグレに告白するまでの長い、長い物語だ。

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