三曲目 火の舞踏

 夏休み。

 それは世の小学生、中学生は歓喜するだろう。しかし高校生にとっては地獄であると私は初日に痛感した。

 一日目から夏期講習。次の日も、また次の日も。

 高校生は勉強が好きなようだ。

 クーラーの無い北海道の末端の市にある高校は風通りが悪く、扇風機も壊れかけていて気分はデクレッシェンドだった。

 そんな中、元気な生徒が一人。私の目の前にいる。シグレだ。彼女は今、音楽練習室の机を引っ張り出し、五線譜を大量に出して作曲をしている。

 先程までは陸に打ち上げられた海藻のように机に突っ伏していたのに私が来た途端、俄然やる気になったようだ。 

 彼女も真面目にやっていることだ。私も練習を始めるとしよう。

 今私が練習している曲はクロイツェル教本の一番。

 クロイツェル教本の中でも難しいとされるこの曲。小学四年生から始めた私にとって些か難しいだろう、と思っていたのだが先生から『あなたなら弾けるっしょ。頑張りな』と軽い調子で激励の言葉ムチャブリを頂いたので今、頑張っている。

 閑話休題。

 私が今苦戦しているところはファーストポジションからハイポジションに一気に上がるところ。音程が定まらずヤキモキしている。例えるのなら立ち幅跳びを助走なしで世界記録を越えろと言われているようなものだ。

 たったの二小節を三十分くらいだろうか。そろそろ飽きてきてバイオリンを置いた時。私は目を奪われてしまった。

 目の前に静かに、激しく燃える炎があったら誰しもがその熱気に、情熱に足を止めるだろう。

Allegro con fuoco熱烈に

 シグレは爆ぜる炎のように激しく舞っていた。留まることの知らない業火が私の四肢を、喉を、果てには五臓六腑を焼き、灰にしていく。

 なんと綺麗な幻想だっただろうか。私は作曲しているシグレがそう見えたのだ。どこまでも飲み込んでゆく炎。それは今一瞬にして消え失せた。いや消えてないな。

「できた。コウセイ褒めて」

 むふー、とドヤ顔を見せるシグレ。

「頑張ったな、シグレ」

 頭を撫でるとだらしなく顔を緩ますシグレ。先程と同一人物なのか疑いたくなる。

「コウセイ、弾こう」

 抑えきれない情熱を宿したその瞳は熱く、燃えたぎっていた。

「ああ、やろうか」

 私もそれに感化されたみたいだ。初見は苦手だが彼女の熱に共鳴して私も燃えてきたみたいだ。

 

§


『火の舞踏』

 シグレはそう曲名を付けた。

 最初はただの火種だった。狭い隙間で燻っているだけの悲しい、孤独の子。押せば消えてしまいそうなそんな火種だった。だがピアノの息が吹き込まれることによって激変する。酸素を、獲物を喰らう。それでも満たされることの無い炎はやがて世界を喰らった。

 ――満たされない。

 飢えた炎に怒りがたまる。

 喰らい尽くした世界で生きるすべもなくまた燻るだけの火種に戻る。しかしそれは怒りの火種。力をためて時を待つ。パチパチ、パチパチと静かに爆ぜながら。

 ――獲物が来た。

 怒りの種が一気に成長し、地獄の業火へと変貌する。

 それは消えることのない、荒々しい飢えた炎。

 そして最後は絶望の和音でこの曲は終わる。


 ――確実にその炎は成長した。


 残響が消えた頃私は彼女に問う。

「シグレにしては攻撃的な曲だったな。なんかあったか?」

「ん、コウセイ。今日の気温知ってる?」

「確か三十四℃だったよな」

「なんでこんな暑いの? 冬はあんなに涼しいのに」

 ハイライトのない目。これは怒っているときのサインだ。

「だから夏に向けての怒りの曲。暑いから疲れた。コウセイ成分を補給する」

 抱きついて、みぞおちあたりで頭をぐりぐりするシグレ。

「そういうとこ、ホント可愛いよな」

「ん、もっと言って」

「シグレ。可愛い」

「ん」

「シグレ」

 ――好きだよ。

「ん……?」

「シグレの音が好き」

 まだ、本音は言わない。

 来月、君の誕生日がある。学校祭の次の日だから覚えやすかった。

 その日まで、待ってて。シグレ。

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