十一月二日 3

 令和五年十一月二日。

 昼休み。

 水崎勇は部室棟の廊下の窓から見える森を眺めながら、文化祭当日を思い返していた。

 朝から部室棟で赤いペンキが零されたり、テントが壊れたりといったハプニングで忙しく動き回っていた。他にも様々な問題ごとが起きたが一番大きかったのは、やはり、窃盗事件だった。

 第一報を聞いたのは何時だったかは覚えていない。軽音部のバンド演奏は始まっていなかったから九時台か十時台だったとは思う。一人目の時点では窃盗ではなく紛失の可能性もあったためあまり大ごとにはならなかった。しかし、被害者が二人目三人目と増え、教師たちは文化祭を中止して犯人探しを行うべきだと言い始めた。四年ぶりの文化祭が中止になることだけは避けたくて交渉を重ねたが、この交渉が難航してかなりの時間を取られた。今にして思えばすぐに文化祭を中止していれば、ここまで大ごとにはならなかったかもしれない。

 しかし、勇はどうしても文化祭を中止にしたくはなかった。

 勇の父親は寿司職人で、勇はその跡を継ぐつもりでいる。強制されたわけではなく自分の意志で寿司職人になることを選んだ。そのために大学へは進学せずに修行することを決めた。大学に行かないことに未練はない。しかし、学生生活が高校三年生で終わることには少しだけ寂しさを覚えている。自分の人生において最後の文化祭は成功させて終わりたかった。そのために、文化祭の中止だけはなんとしても阻止したかった。もちろん、コロナ禍開け初めての文化祭を楽しもうとする全ての生徒たちのことも思っていたが、自分の最後の文化祭であるということも、文化祭を中止させたくない理由としては大きかった。

 種々の問題に翻弄される中、グラウンドから軽音楽部の演奏が聞こえた時はそんなに時間が経ってしまったのかと思った。しかし、時計を確認するとまだ十一時になったばかりで、何故こんなにも時間を早めて演奏を開始したのかは分からなかった。このときは、窃盗の被害者が三年生だけではなく二年生も被害にあっていることが分かったタイミングだったため、演奏時間が早まったことを確認する余裕がなかった。今にして思えば、各教室に見張りの一人でも置いていれば、窃盗の何件かは阻めたかもしれなかった。しかし、このときは窃盗犯が白昼堂々何時間にも渡って盗みを行っているとは考えておらず、窃盗は手早く済まされた後だと思っていたため、大ごとにしないように動いていた。

 結局、窃盗の規模が大きくまだ分かっていない被害を確かめるためにも生徒たちを教室に集めることになった。交渉の成果もあり、文化祭は中止ではなく中断することとなった。中止ではなくなったとはいえ、精神的なダメージは大きかった。そこにゲリラ豪雨が降って来た。雨が降る予報は朝の時点ではなかった。雨が降った時のシュミレーションは行っていた。朝の時点で雨が降ることがほぼ確定しているようなら、教室で通常授業を行い、文化祭自体は翌日に延期。朝の時点で雨が降る可能性があれば、天気予報を随時チェックして雨が降る前にテント間に防水性の布を張る用意をしていた。しかし、状況はイレギュラーで、忙しさのせいで天気のチェックはできておらず、雨が降るよりも前に生徒たちは教室に集められていた。雨もゲリラ豪雨でテント間に布を張らずともしばらくすれば止むような類の雨だった。勇が急いでしなければならないのは、雨の予報があるときに降り出す前に回収する予定だった美術コースの作品を回収することだった。

 勇は美術コースではないが美術コースの作品に思い入れがあった。

 中学三年生のときにS高等学校のオープンハイスクールに参加した時のことだ。当時はコロナ禍の真っ只中で、オンラインでのオープンハイスクールだった。学校の説明の中で特に文化祭に惹かれた。S高等学校には美術コースがあり、校舎の壁全面を使った巨大絵や様々なハロウィンに関するオブジェを制作し、それらが彩るグラウンドは他の学校の文化祭とは異なる独自の雰囲気があることが動画付きで説明されたのだ。勇は中学三年生の時点で大学に進学するつもりはなく、学力以外で高校を決めるつもりでいた。勇は文化祭の説明を聞いたそのときにS高等学校に入学することを決めたのだ。夢中で説明を聞く中で、2020年は文化祭が中止になることにショックを受けた。説明の中で美術コースの作品は来年以降も残し、来年以降の文化祭を彩ることになるから君たちの文化祭で使われるかもしれないと言われた。勇は来年以降の文化祭がこれらの美術コースの作品に溢れた文化祭になることを夢見てS高等学校に入学した。そして、その夢が叶ったのは高校三年生の最初で最後の文化祭だった。

 勇は慌てて雨の中を走り、部室棟の一番奥に置かれた2020年の作品を退避させに向かった。他の文化祭実行委員にも美術コースの作品を退避させるよう連絡していた。その中で一番最初に連絡がついた二年生の吉住という実行委員には、部室棟一階の一番奥にある部室の鍵を持ってくるようにお願いした。部室棟の奥から手前の出入り口まで一回一回往復していては作品が雨でダメになってしまうため、窓から部室へ入れるためだった。勇はグラウンドから吉住は部室から作品の退避を行おうとした。そのとき、勇は部室棟の奥にあるオブジェの中に倒れているミイラ男を見つけた。それが何かは後に分かることになる。それは金子光士の死体だった。

 勇は火村に美術コースの作品の退避時に死体を見ていないと嘘を吐いていた。

 勇は先ほど火村に見せられた動画の内容を思い出す。

 そこには、ミイラ男がいた。そのミイラ男は窃盗に使用されたエナメルバッグを肩に下げている。ミイラ男は部室棟の手前を校舎側から奥側に向かって歩いている。バンドの演奏が聞こえ、雨が降る前のことだと分かる。つまり、火村が金子が死んだと考えている時間よりも随分と前に、金子は死体として発見される場所に向かっていたのだ。そして、それを火村が分かっていることを動画を見せることで勇に伝えた。おそらく、その後の勇の行動も火村は分かっているのではないだろうか。火村はその勇の行動を表沙汰にしないために事実と異なる金子の死亡推定時刻を提示したのではないだろうか。表沙汰にしない理由は分かる。勇の教師陣への信頼を利用して月原の冤罪を晴らすため、勇を働かせる対価ということだろう。勇は法律には詳しくないが、したことが何らかの罪になるだろうことは想像できた。

 文化祭の日、雨の中のオブジェの裏にミイラ男が倒れているのに気づいたとき、同時に頭から血が流れているのが分かった。雨が少しずつ血の跡を流していくのを見ながら、勇は怪我人が出て文化祭が中止になるかもしれないことなど頭から抜け落ち、ただ、目の前で血を流すミイラ男を助けるために教師を呼びに行こうと思った。しかし、その足を止めるものが視界に入った。エナメルバッグだ。口が閉まり切っておらず中身が見えている。女性が使っていそうな可愛らしいデザインの財布が見える。エナメルバッグは男物に見える。勇は不審に感じてエナメルバッグを開けた。中には大量の財布があった。頭が真っ白になる。機能停止した頭を動かしたのは吉住の声だった。

「早く取り込まないと作品ダメになっちゃいますよ」

 言われて作品を見ると木製や金属製、プラスチック製の作品は大丈夫そうだった。しかし、段ボール製などの紙でできた作品は雨の強さで壊れ始めてしまっていた。なぜこんなことになってしまったのか。それは窃盗事件のせいで作品の退避にまで手が回らなかったからだ。視線をエナメルバッグに、そして、ミイラ男に向ける。吉住は開いた窓の奥側にいて、自分の前にある窓の真下にミイラ男が倒れていることには気づいていないようだった。勇は、吉住に窓を閉めて部室から出るように指示した。紙製の作品はもう壊れてしまって回収しても部室を汚すだけになるからと説明した。吉住がいなくなった一人の空間で、ミイラ男を見下ろした。

 勇は激しい怒りに襲われた。

 こいつが窃盗事件を起こしたせいで、文化祭が中止になろうとした。

 こいつが窃盗事件を起こしたせいで、美術コースの作品が壊れた。

 こいつが死んでいれば、文化祭は確実に中止になる。

 こいつのせいで、高校生活最初で最後の、そして、人生で最後の文化祭が終わる。

 そこからの勇は怒りの中にあった割には冷静に動いていたと思う。まず、雨脚が弱まるのを感じて、文化祭実行委員が行っていた作品の退避作業を終わらせた。彼らを収集がかかっている各自の教室に向かわせる。彼らがいなくなるとグラウンドには勇一人になる。校舎からは巨大絵があるためグラウンドは誰も見ていない。勇はエナメルバッグを渡り廊下にまで移動させた。渡り廊下にあれば誰かが見つけてくれるだろうと思ってのことだった。盗まれたものさえ見つかっていれば、文化祭を続ける交渉がやりやすくなる。そして、血を流し倒れるミイラ男には何もしなかった。こいつの存在を知らせれば文化祭が中止になる可能性があるからだ。死体は美術コースの作品に囲まれて隠れていたし、近くのテントが壊れて周囲は立ち入り禁止になっている。そのままにしておけば、文化祭終了まで誰も気がつかないかもしれない。こいつのせいでこれ以上文化祭が中止の危機に晒されるのは耐えられない。

 四年ぶりの文化祭がこんな奴のために。

 高校生活最初で最後の文化祭がこんな奴のために。

 人生最後の文化祭がこんな奴のために。

 今にして思えば、怒りで全く冷静な判断ができていなかったことが分かる。窃盗事件の証拠品を勝手に動かしてしまったのはいけないことだった。頭を流して倒れているミイラ男は勇が発見した時点ではまだ息があったかもしれないのに何も行動を起こさなかった。

 予鈴が勇を現実に引き戻す。

 勇は教室に向かうために歩き出した。そしてその道中で真っ赤に染まった階段を見下ろす。これも金子の仕業だった。

 文化祭の雨の中、勇は怒りで冷静な判断ができていなかったが、今の勇がその場にいたとしてもおそらく同じように行動していたと思った。

 勇は赤く染まった階段をゆっくりと降りた。

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