十一月一日 9

 令和五年十一月一日。

 午前十一時十分。

 灯子は、二年生の教室が並ぶ三階に向かった。

 三階にはかなりの生徒がいた。様子を見ると垂れ幕の回収をしているようだった。垂れ幕は今後も代々引き継いでいくため、傷つけないように丁寧な回収作業をしていた。三階では屋上からの垂れ幕の下部を固定していて、さらに、二階と一階を覆う垂れ幕の上部も固定しているようだった。

 何十人もの生徒が作業をしていたが、何割かの生徒は手持ち無沙汰に突っ立っているだけだった。彼らにならば話を聞ける。

 何も書かれていない黒板をぼーっと眺めている男子生徒に声をかける。

「ちょっといい?」

「はい」

 灯子に声をかけられ、男子生徒はポケットから折り畳んだ紙と四色ボールペンを取り出しながら応えた。

「どの教室ですか?」

「?」

「あ、進捗報告じゃないですか?」

「違うよ。ただ、ちょっと聞きたいことがあっただけなんだけど」

「いいですけど、僕は校舎の巨大絵担当なんで、他の場所のことだと分からないかもしれません」

「いや、昨日あった窃盗の犯人っぽい人を校舎内に見かけなかったか聞きたいだけなんだけど」

「あ、もしかして、僕が文化祭実行委員とか関係なくの質問ですか?」

「そうだね。文化祭実行委員なんだ?」

「そうです。えーと、それでなんでしたっけ?」

「窃盗の犯人っぽい人を校舎内で見かけなかった?」

「見てないですね。昨日は忙しくて校舎内を見て回る時間なんてなかったですから」

「実行委員も大変だね」

 文化祭実行委員であれば、他の生徒が知らない何かの情報が得られるかもしれない。窃盗事件については情報を得られそうにないが、灯子は男子生徒と会話を続けることにした。

「はい。大変で大変で。想定外のことがかなり起こりましたから」

「想定外って?」

「部室棟でペンキがこぼされたり、テントが壊れたり、軽音部のライブの時間を変えなくちゃいけなくなったり、雨でいろいろなものを屋内に移動させなきゃならなくなったり。それに加えて、窃盗事件に、金子先輩の転落事故ですよ。こんなことになるなんて思ってなかったですよ」

「軽音部のライブって何かあったの?」

「雨が降りそうだから早くやらせてくれって言われて時間を早めたんですよ」

「屋外でやったの?」

 男子生徒は不思議そうな顔で、

「そうですよ。一時からの予定が十一時からに早まったんですよ。二時間も変わっちゃって」

「ライブはどこでやったの?」

「どこって……」

 男子生徒は窓の方を向き、垂れ幕が回収され見えるようになったグラウンドを見た。灯子も視線を向ける。

「あの櫓の上ですよ」

 男子生徒が不思議な顔をした理由が分かる。灯子があんなに目立つ場所でしていたライブを知らなかったからだ。

「櫓でライブって珍しいね」

「体育館を巨大お化け屋敷にするって決まってから、軽音部とか演劇部とか舞台を使う部活をどうするんだってなったんですよ。それで、軽音部のライブは野外ライブにしようってなったんですけど、舞台がなくて。文化祭実行委員長として水崎先輩が市に掛け合って借りてきたんですよ、あれ」

「すごいな、それは」

「ですよね。その甲斐あって野外ライブは大成功だったんですけど、二時間変更は……。正直きつかったです」

「雨が降るって事前にわからなかったの?」

「朝の時点では雨の予報はなかったんですよ。友達に聞いたら雨の予報が出始めてからは結構みんな雨大丈夫かってなってたみたいなんですけど。文化祭実行委員のみんなはバタバタしてて雨の予報が出たこと知らない人が多くて、余計にバタバタしちゃって」

「大変だね。ライブってどのくらいの時間やってたの?」

「一時間半くらいです。本当は二時間の予定だったんですけど、雨が降りそうだからって早めに撤収したんです。機械系のものも色々あったんで、演奏終わってすぐに急いで音楽室に運んだんですけど、本当にギリギリ雨に当たらなくて助かりました」

「さっき、雨が降ってから屋内に色々移動させたって言ってなかった?」

「軽音部の機材以外にも色々あったんですよ。──あ、進捗報告ですか?」

 男子生徒の視線が灯子の後ろに向く。そこには二人組の女子生徒が立っていた。二人は男子生徒に歩み寄り、垂れ幕回収の進捗報告を始めた。灯子は、二人の報告が終わるのを窓の外を見ながら待った。

 グラウンドの外には森が続いている。S高等学校は三方向を森で囲まれ、残りの一方向の先にもしばらくは田舎道しかない。野外で軽音部がライブをしたと聞いたときは、騒音が問題にならないかと思ったが、この光景を見る限りは大丈夫そうだった。

 二人の女子生徒が教室から出ていく。それを見送った男子生徒が灯子の方を向いた。そこに灯子が立っていると思わなかったようで、意外そうな顔をした。

「雨が降ってから取り込んだ色々って何があったか聞かせてもらえる?」

 男子生徒は、あからさまに不審げな目線を向ける。確かに、待ってまでするほどの世間話かとは灯子も思った。しかし、雨で室内に取り込むと聞いて思い浮かんだことがあり、灯子は話を続けることにした。

「……部室棟の前にある美術コースの作品です」

 野外に置いてあるものは大概がテントの下にあった。テントの下であれば雨は凌げる。テントの下になくて濡れたら困るものとして、部室棟の前に置かれたハロウィンのオブジェたちだと灯子は考えていた。思った通りだった。

「その作品を取り込んだ時のことを詳しく教えてほしいんだけど、いいかな」

「……はい」

 男子学生は不審に思いながらも応えてくれるようだった。灯子が面識のない先輩だからだろう。面識のない先輩の面倒ごとではない頼みごとは断りずらい。

「軽音部の機材を運び終えて、しばらく休めそうだと思ったところで雨が降ってきたんです。ものすごい豪雨で。雨が降り始めてすぐに水崎先輩から連絡があって、急いで動植物研究会の部室の鍵を持って部室棟まで来るように言われて、向かったんですよ。鍵を持って部室棟に行く途中で水崎先輩に会って、水崎先輩がグラウンドから作品を動植物研究会の部室に渡すから中で受け取ってくれって言われて」

「ごめん、その動植物研究会っていうのは何? なんでそこに作品を取り込もうとしてるの?」

「部室が部室棟の一番奥にあるんです。美術コースの方の作品なんですけど、奥から2020年、2021年、2022年、今年に作られた作品が並んでて。コロナのせいで2020年に作られたのも今年初めて使われたんですけど、その、なんていうんでしょう、長い間待たされた作品? を優先して退避させようとしてたみたいなんです、水上先輩は。それで、校舎に退避するにしろ部室棟に退避するにしろ距離があったんで、動植物研究会の部室に直接取り込もうと思ったらしいです」

「なるほど」

「僕は、勝手に動植物研究会の部室に入らない方がいいんじゃないかって言ったんですけど、作品が優先だって言われて従いました。でも、結局部室から取り込まなかったんですよ。僕が部室側から窓を開けたら、水崎先輩は雨が強すぎて水に弱い作品はもうダメになってしまったって言われて。それで、勝手に部室に入ってるのに雨で汚すのは不味いからすぐに窓を閉めて部室を出ろって言われて」

「なんか言うことがそんなにコロコロ変わるなんて水崎らしくないね」

「そうなんですよ。僕も入れって言われたり出ろって言われたりして、一言意見しようと思ったんですけど、水崎先輩怒っているように見えたんで、結局何もいいませんでした」

「怒ってた? 君に?」

「いえ、僕にじゃないです」

「じゃあ、何に?」

「なにに……。水崎先輩、当日は一番忙しかったんですよ。校舎内で起こった窃盗事件で文化祭が中止になりそうだったの知ってますか?」

「いや、初めて聞いた」

「四年ぶりの文化祭で、三年生は高校最後の文化祭だから中止だけはやめてほしいって先生にお願いしたり、窃盗の犯人を探したり。窃盗の規模が大きすぎたんで、中断することにはなっちゃったんですけど、かなり頑張って交渉してたらしくて。窃盗事件に掛かり切りだったせいで、雨の対応が遅れたんですよ。だから、怒ってたのは僕にじゃなくて、窃盗犯とか雨とかにだと思います」

「そうか」

 水崎は文化祭実行委員長としてかなり熱を入れて活動していた。それは、文化祭に関わりの薄い灯子にまで伝わるほどだった。それが、窃盗と悪天候により壊されたことに怒りが湧くことは理解できる。

「結局、出入り口付近の作品だけいくつか退避させているうちに、雨が弱まって作業をやめました。作業中に教室に集まるように放送があったので、それに遅れて向かいました」

「水崎は?」

「水崎先輩は作品の状態を確認していました。たぶん、水崎先輩も遅れて教室に行ったとは思いますよ。──あ」

 男子生徒の視線が灯子の背後に向けられる。そこには女子生徒の姿がある。おそらく進捗報告に来た生徒だ。灯子が話していたため進捗報告が出来ずに待っていたようだ。

「ごめんね、長いこと拘束しちゃって。色々教えてくれてありがとう」

「いえ」

「君も待たせてごめんね」

 灯子は女子生徒にそう言って教室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る