十一月一日 5

 令和五年十一月一日。

 午前九時。

 灯子は部室棟の一階から階段を見上げた。階段中に溢れた真っ赤なペンキは既に乾いている。階段の段差の垂直な面にはペンキが上から垂れてきた跡が見てとれる。仁の話でもペンキの入った缶が一階と二階の間にある踊り場に落ちていたということだったので、ペンキが上から零されたのは間違いないようだった。

 灯子は考え事をしながら階段を登る。

 昨日、金子は部室棟のどの部室の鍵も借りていなかった。それにも関わらず、部室棟にいたのは何故だろうか。誰も詳細を知らないフラッシュモブに関係するのだろうか。しかし、フラッシュモブに関係するとしてもどこの鍵も持っていなければ廊下しか使えない。なにをしていたにしろ、なぜ部室棟にいたのか、なぜ部室棟から消えたのかが分からない。

 金子の行動におかしな点はまだあった。

 ペンキは一階と二階の間の踊り場から一階へ向けて零されている。つまり、ペンキを零したのは部室棟にいた人物だ。鍵の貸し出し履歴を見る限り、昨日は木島しか鍵を借りていない。他の部室に人がいなかったとすると、部室棟にいたのはいたのは、仁、木島、金子の三人だけだ。仁ではないことは長い付き合いで分かっている。木島も仲良くはないがペンキを零してそれを放置して部室で時間を潰すような人間ではないことぐらいは分かる。そうなると、ペンキを零したのは金子ということになる。ペンキが溢れるのを発見する前、仁はペンキ缶を見かけていないと言っていた。誰かが持ってきたペンキ缶を金子が零したのか、金子がペンキ缶を持ってきて金子がペンキ缶を零したのか。他にペンキ缶を運ぶ人間がいない以上、後者だろう。そして、後者であれば、なぜ、金子はペンキ缶を持っていたのか。

 三階に到着し、文芸部の部室に向かう。灯子は一年生の頃から文芸部員ではあったが部室の鍵を開けたのは初めてだった。それどころか、部室に入るのも初めてだった。何かの部活への入部が必須だったため、仁と同じ部活を選んだだけの実質的には帰宅部だった。

 文芸部の部室というからには本棚に囲まれているイメージだったが、背の高い本棚はなく、胸の高さまでの本棚がいくつかあるだけだった。勉強机ではない簡素な机と、折りたたみ式のパイプ椅子。その他には何もなかった。文芸部は幽霊部員ではないちゃんとした部員は二名しかおらず、そのうちの一人である仁も部活への出席率は高くない。木島一人で使うにはかなり広い空間だった。そして、かなり快適な空間だった。

 灯子は窓を開けた。

 窓の外は垂れ幕の白い裏側しか見えない。テントを片付ける声が微かに聞こえる。

 灯子は窓から顔を出し周囲を確認した。

 窓の真下にはハロウィンのオブジェたちが置かれている。文芸部室と隣の教室の間くらいの位置に、オブジェが何も置かれていないスペースがある。あの空間に金子の死体があったのだろう。その空間の傍には金子の死体の写真に写っていたカボチャや石柱が置かれている。

 右を見れば垂れ幕と部室棟の壁の隙間から森が見える。左を見れば、延々と続く垂れ幕と部室棟の壁が見える。

 そこにふと一本のロープを見つけた。垂れ幕と垂れ幕の隙間に一本だけ細く伸びている。右を向き直ると、そこにもロープを見つけることができたが、そのロープは垂れ幕の端に等間隔に開いた穴を通っていた。ロープは地面まで伸び、巨大な蛙のオブジェに括り付けられていた。風が吹いても靡かないようにするために地面と固定するためのロープのようだった。しかし、左に向き直りロープを見ると垂れ幕に開いた穴を通っていなかった。ロープの先も何にも結ばれていない。左のロープは何の意味もないロープのようだった。

 上を見上げると壁と垂れ幕の間に、青空が見える。

「何してるの?」

 声に振り返ると木島がいた。

「……今日で文芸部員でいるのも最後だし、部室くらい見ておこうと思って」

「外を見ていたみたいだけど」

「外も見てたんだ」

「ふーん。それで何してるの?」

「………………」

「月原くんの冤罪について調べてるんでしょ? 何かわかったの?」

「いや、特には」

「そうなんだ」

「一応確認させてほしいんだけど、ペンキ零したの木島じゃないよね」

「違うよ。金子くんなんじゃないかな」

「やっぱり金子だよな……」

「水崎くんも金子くんだと思ってたみたいだし」

「水崎も? なんて言ってた?」

「うーん。なんて言ってたかは覚えてないけど、金子くんを疑ってる感じだったかな」

「そうか……」

 水崎にも話を聞きたかったが、彼は文化祭実行委員長であり、常に動き回っている。何か話を聞くにも運良くどこかで見かけるほかにない。

 灯子は木島に近づいて、部室の鍵を渡した。

「そういえば、木島は昨日十二時まで部室にいたの?」

「え? なんで?」

「鍵置き場のファイルで十二時まで借りてたの見てさ。出れるようになってすぐには出なかったんだな」

「うん。お昼まではここで本を読んでたよ」

「それでさ、何か十二時までに変わったことはなかった?」

「なかったよ」

「何も?」

「……なかったと思うよ」

「そうか。仁から聞いたんだけど、昨日は窓開けてたんだよな? 何も聞こえなかった? 下に何かが落ちる音とか壊れる音とか」

「……うーん、あ、一回壊れる音は聞こえたかな。この下にあるテント壊れてたでしょ?」

「あぁ、それは仁も言ってたよ。部室にいるときに下で騒ぎがあったって。他には特に何も聞こえなかった? 何か他に騒ぎがあったとか」

「うーん。騒ぎって言えるかは分からないけど、何人かの男子が騒いでる声は聞こえたかな」

「そっか。ちなみに聞こえた人の声の中で誰か知ってる人いた?」

「うーん……あ、八木くんの声は聞こえたよ」

「八木? どんな奴だっけ?」

「たしか……多分だけど、サッカー部のキャプテンか副キャプテンをしてるんじゃなかったかな……」

「あー、分かった、あいつか。サッカー部の八木ね。ありがとう」

 灯子は礼を言って部室を後にした。


 令和五年十一月一日。

 午前九時十九分。

 灯子は今度はグラウンドから金子の死んだ場所を眺めていた。

 教室で男子学生に見せてもらった写真と同じ構図に見える場所に立つ。注目して見ないと分からないが、金子の死体のあった場所の付近のオブジェだけ、部室棟の壁から離れ、グラウンド側に突き出ている。上から見た際にスペースができていた部分だ。

「そんなはずはないけどな」

 すぐ隣から男子学生の声がした。視線を向けると、壊れたテントを囲んで何人かの学生が揉めていた。揉め事に巻き込まれたくなく、灯子は少しだけその場から離れた。周りでもテントの撤収作業が行われている。文化祭の片付けの時間はかなり余裕を持って設定されているため、慌てることもなく和気藹々と片付けている学生がほとんどだった。

 唯一揉めている学生たちの声が聞こえる。

「いや、でも実際ないしな」

「立てた時にはあった? 誰か覚えてる?」

「いや、あっただろ。ないと立たないし」

「ないから壊れたんじゃないの?」

「でも、立てる時に先生も確認してたじゃん。絶対あったって」

「あのさ、結構長いこと放置してたから誰かが持っていったんじゃない?」

「持ってかないだろ、なんに使うの?」

「知らないけどさ」

 どうやらテントの部品が一部なくなっているらしい。

「先生に来てもらって、どうするか決めるしかなくない?」

「じゃあ、誰が呼びに行く?」

「最初はグー、ジャンケン──」

「待って待って、漢気おとこぎ?」

「あ、漢気にする? よし、じゃあ漢気ね。漢気ジャンケン──」

 壊れたテントを囲んで揉めていた学生たち雰囲気が少しだけ明るくなる。

 周囲を見回すと皆が楽しそうに片付けをしている。文化祭当日はより楽しい雰囲気だったのだろう。皆が四年ぶりの学校行事ではしゃいでいた。

 灯子は窃盗事件や転落死のことが頭の中にあるのは自分だけのような錯覚に陥る。窃盗事件については盗まれたものは見つかっていたし、転落死については金子と関係のない学生からすれば、文化祭の熱を下げるようなトピックにはなっていないのだろう。

 昨日のことを無かったかのように振る舞う学生たちの中で、灯子一人だけが自分が行っていない昨日の文化祭の中にいるようだった。

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