十一月一日 4

 令和五年十一月一日。

 午前八時四十四分。

 灯子は職員室に入って最初に視界に入った教師である日高に声をかけた。日高は古典の教師で、一年と二年の時の灯子の担任である。柔和な顔をした小太りのおじさんで、おしゃべり好きなこともあり、教師の中では特に声をかけやすい存在だった。

「すいません、今お時間いいですか?」

「お、火村さん。今お時間大丈夫よ。どうしたの」

「お聞きしたいことがありまして」

「僕が火村さんに教えられることなんて何もないよー。火村さんはいつでも教壇に立てるくらい勉強できるじゃない。もう歳でどんどん忘れていくからさー、僕が教えて欲しいくらいだよ」

「あの、勉強の話ではないんです」

「え、どうしたのどうしたの。勉強以外の話? あ、恋バナか。あ、ダメだこれ、セクハラになっちゃうんだっけ。今のなし今のなし」

「金子くんの件なんですけど」

「金子くん? 昨日亡くなった子だよね。あら、火村さん金子くんと仲良かったの? 知らなかったな」

「金子くんの亡くなった時間って分かりますか?」

「いやー分からないなー。分かる人いるかなー? なんで金子くんの亡くなった時間が知りたいの?」

「ちょっとした興味です」

「えーそんな理由でわざわざ職員室にまで聞きに来るかなー? 何かあるな、何何? なんかちゃんとした理由があるんでしょ?」

 おしゃべりな日高に、仁が金子の死んだ部室棟の屋上にいた事実が伝われば面倒なことになる。

 灯子は話題を逸らそうと周囲を見回した。日高の席の真後ろの壁に十数本の鍵がかかった奥行きの浅い棚があった。その棚は透明な戸が付いており、その戸も鍵がかかるようになっていた。

「本当にちょっとした興味です。鍵を取りに来たついでに聞こうと思って」

「鍵? 火村さんが鍵を取りに来ることなんて今まであったっけ?」

「初めてです」

「だよね。僕が鍵当番になってから会ってないもの。鍵の借り方分かる?」

「分からないです」

「そうだよね。鍵を取り出して勝手に持っていっちゃダメなのよ。棚の横にファイルあるでしょ? そこに借りた鍵に書いてある教室名と、借りた人の名前、借りた時間を書かないとダメ。返しに来る時は、返した時間を書かないとダメ。このファイル僕が作ったんだけどさ、このファイル作るまでは僕が誰がどの鍵を借りていったか覚えてなきゃならなかったんだよ」

 日高は立ち上がり棚の横に紐で吊り下げられた厚紙製のファイルを手に取った。ファイルの表紙には『部室鍵管理』と書かれている。日高はファイルを開き、中にあるマス目のある紙を灯子に見せた。マス目の一番上には『日付』『部室名』『クラス』『名前』『借時刻』『返時刻』と各列のタイトルが書かれている。

「どこの鍵持ってくの? 火村さんに部活のイメージないけど。たこ焼き部とか? あ、たこ焼き部は部室ないか。焼きそば部か」

 S高等学校は文化祭を部活単位で行うため、文化祭でしか活動しない形ばかりの部活があった。たこ焼き部や焼きそば部もその部活の一つだった。昨年と一昨年は文化祭がなく、灯子は今年も文化祭にあまり関わりがなかったので、久しぶりに聞いた部活名だった。

「そんな変な部活入りませんよ。文芸部ですよ、一応」

「文芸部っていったら木島さんの部活か。木島さんしか鍵を取りに来たことないよ」

「月原くんは来たことないですか?」

「あー何回かあるなー。そうか月原くんも文芸部だったか」

 灯子は透明な戸越しに文芸部室の鍵を探した。『文芸』と書かれたネームプレートのついた鍵を見つけて戸を開けようとしたが開かなかった。

「ごめんごめん、鍵かけてた」

 日高はそう言って棚の戸の鍵を開けた。

「ありがとうございます」

「普段は鍵なんてかけてないんだけどねー。昨日窃盗事件あったでしょ? なんか鍵の管理にうるさくなっちゃって」

「そうなんですか」

 灯子は応えながら戸を開けて文芸部の鍵を取り出す。

「文芸部の活動も今日で最後かい? もう三年生が鍵取りに来ないとなるとちょっと寂しいねえ」

 多くの部活は夏の大会などを期に三年生は引退し、通常の部活動には参加しなくなる。しかし、文化祭は部活単位で活動するため、三年生の実質的な引退は今日だった。

 灯子は日高からファイルを受け取り、ファイルの背表紙についたボールペンを外した。開かれたページの真ん中あたりまでマス目が埋まっている。日付欄には一番上に『10/30』と書かれておりその下は『〃』が並んでいる。灯子の記載する欄の真上のマスは『10/31』と書かれていた。灯子は一度『〃』と書こうとしたが、今日が十一月一日であることに気づき『11/1』と書いた。既に埋まっている真上のマスの内容を参考にしながら、残りのマスを返時刻欄以外を埋めた。

「ん?」

 日付欄が十月三十一日の記載が一つしかない。三年六組の木島美空が八時一分から十二時八分まで文芸部室の鍵を借りていた旨が記載されているのみだった。

「……昨日金子くんって鍵を借りに来ませんでした?」

「来てないよ」

「日高先生がいない間に鍵を持っていくことってできますか?」

「うーん。席を外している間に勝手に持っていくことはできると思うけど。なに? ファイルに書いてないのに鍵持ってってたの? ダメだよ鍵の管理は僕が任されてるんだから、怒られちゃうよ。もう今日はこれ以上怒られたくないよ。今度会ったら注意──」

 日高はそこまで言って、金子が亡くなっていることを思い出したようだった。

「注意は、そうか。できないか」

「そうですね」

 なんとなく気まずい沈黙が流れて、灯子は話題を変えることにした。

「今日はこれ以上怒られたくないって、何か怒られるようなことしたんですか?」

「そうなんだよ。毎朝、全部の教室の鍵と部室棟と体育館と出入り口の鍵を開けてるんだけどさ、今日も鍵を開けて周ったら、昨日窃盗事件があったんだから、不用心に鍵を開けるなっていうんだよ。昨日のうちに言っといてくれないとさー。それに、各クラスに一人目の生徒が来た後に一々開けに行けっていうんだよ。そんなの無理じゃん。あー、なのになんで怒られてんだろ」

「大変ですね」

「大変よ大変、本当大変」

「昨日の朝ってどのくらい席を外されてました?」

「昨日の朝? そうだなー、ずっといたと思うけど。昨日の朝何かあったの?」

「いえ、私が勝手に金子くんが鍵を借りにきているものと思っていただけです」

「いやー来てないと思うなー」

 日高は何かを聞きたそうに灯子を見たが、灯子は気づかないふりをした。

「では、失礼します」

「あーうん。またねー」

 灯子は職員室を出た。手には文芸部室の鍵が握られている。

 灯子は部室棟に足を向けた。

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