文化祭の最中 3

 令和五年十月三十一日。

 午前九時十分ごろ。

 開かれた窓から声が聞こえてきた。

「お前、田中かよ。ずっと上田だと思ってたわ」

 男子生徒の大きな声だった。それに返す声も男の声だったが、三階にまで届く声量ではなく、何かを言っているとだけ辛うじて分かる程度の声量だった。

 声は木島にも聞こえたようだった。声の主が見えるわけではないが、窓の方向を二人して向いた。

「どういう意味だろう?」

 仁の問いかけに木島は「声が似てたんじゃないかな」と応えた。

「声が似てるだけでそんな勘違いするかな?」

「男子はミイラ男の仮装しているんでしょ? ミイラ男って顔も隠れるから」

 確かにミイラ男の格好で声と背格好が似ていれば、勘違いするかもしれない。

「どのくらいの男子がミイラ男の仮装しているんだろうね?」

「学校全体でするって聞いたけど」

「でも、さっき会った水崎は制服のままだったんだ」

「そうなんだ。私がさっき会った金子くんはミイラ男だったよ」

「金子に会ったの?」

「うん。一階の階段がペンキが溢れていて通れないって教えに来てくれたよ」

「へぇ、なんかイメージと違うね」

 水崎から、金子にペンキのことを伝えて回るように言ったとは聞いていたが、まさか本当に伝えて回るとは思っていなかった。

「うん。でも感じ悪かったよ。なんで居んだよって言って、すごい勢いでドア閉めて帰って行ってさ」

 部室に来た時に扉が数センチ開いていたことを思い出す。あれは、勢いをつけた反動で扉が開いてしまったということなのだろう。

「それは、イメージ通りだね」

 感じの悪い金子なら容易に想像できた。しかし、金子もミイラ男の格好をしているのは想像していなかった。自分中心の金子はヴァンパイアなどの格好良い衣装を着て、周りはまさしくモブのようにミイラ男の格好をさせているものと思い込んでいた。金子自身もモブのような働きをするということだろうか。いずれにせよ、よく分からないフラッシュモブに学校中を巻き込み、全男子生徒の格好を指定する時点でかなり自分中心ではあることには変わりない。

 木島は「ねー」と軽い相槌を打って、本の世界に戻って行った。

 仁は外に出られるようになるまで部室で時間を潰そうかと思っていたが、一階への階段が通れるようになった時も金子が伝えに来る可能性があることに思い至った。最悪の可能性を妄想する。フラッシュモブで格好を揃えることは分かっているが、具体的に何をするかは当日の朝である今の時点でも聞かされていない。金子と共に部室棟に閉じ込められている今、フラッシュモブの内容によっては、見つかったら何かの手伝いをさせられるかもしれない。そうなれば逃走の機会はない。

 やはりトイレの個室で時間を潰す方が良いかもしれない。

 部室の扉をゆっくりと開ける。外に顔を出し廊下を確認するが人気はない。ゆっくりと廊下に出て足音を殺して歩く。突き当たりまで移動すると上に向かう階段と下に向かう階段がある。部室棟は三階建てのため、上は屋上である。

 仁は、トイレに向かうのを止め、屋上に向かった。

 屋上に出ることはできないだろうが、屋上への出入り口の前には踊り場がある。そこであれば、普通は人が立ち入らない場所なので金子が伝令に来ることもないだろうと思ったからだった。それに、トイレの個室よりも広さもあり不潔でもなく居心地が良いはずだ。

 踊り場は、思ったよりも物が散乱していた。ただ、ゴミというわけではなく、文化祭の準備に使われたであろうもので溢れていた。垂れ幕の予備か余りかのどちらかであろう大きな布や、それを垂らすための丈夫な紐、絵の具や筆や中身のわからない段ボールなどが置かれている。

 人が一人眠れるくらいのスペースは足場が残っていたため、仁はそこに垂れ幕を引いて大の字に寝転がった。

 文化祭を楽しむ喧騒が遠くから小さく聞こえた。


 令和五年十月三十一日。

 午前九時三十分ごろ。

 意識が飛んでいたことに気がついて、慌ててスマホの時間を見た。あまり時間が進んでいなかったことに安堵する。

 寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こす。

 完全に起き上がるために、そばにあったドアノブをつかんだ。部室棟の扉は基本的に引き戸であるが、屋上への扉は開き戸だった。

 ドアノブがくるりと回り、屋上に向けてドアが開いた。

「お」

 驚いて少し声が出た。

 屋上の扉は基本的には閉まっているはずである。なぜ、開いているのか考えたが、周りを見て分かった。垂れ幕を屋上から吊るす際に開けて閉め忘れていたのだ。

 屋上へ出ると、頭上に青空が広がっていた。完全な快晴ではなく、割り箸に巻き付けられる前の綿菓子のような薄い雲が散らばっていた。それでも、陽光を遮るような雲はなく風も微風が時折吹くだけでかなり良い陽気だった。ただ、それは直上だけのことで、遠くを見ると暗い雨雲がある。

 スマホで天気予報アプリを開く。巨大な雨雲がS市の遥か北にある。雲は豪雨を表す赤色で表示されている。方角と距離からS高等学校には雨は降らなそうだと思ったが、S市の真西に小さな赤い点があるのを見つけてしまった。赤い点はS市の四分の一程度の大きさだった。最近、長短時間だけゲリラ豪雨が降ることがあるが、今日も降るかもしれない。

 屋上からグラウンドを見下ろす。いくつものテントとそれに並ぶ人の群れがあった。ミイラ男がかなりの数いるが、普通の制服であったり、部活のユニフォーム、アニメのコスプレなど、男子にもミイラ男以外のコスプレをしている学生が大勢いた。

 スマホで写真を撮り灯子に送信する。

『こんな感じ』

 目に見える範囲で三割くらいの男子がミイラ男になっている。一学年約300人で、半数の150人が男子だとすると、三学年分で450人。仮に全男子学生の三割がミイラ男になっているとすると135人。

 ミイラ男が三割程度だった時には少ないかもしれないと思ったが、百人以上がミイラ男なら一人くらいいなくても大丈夫なように思える。それどころか、七割がフラッシュモブに参加しないのなら、参加しないのが多数派だ。

 仁は帰ることに決めた。

 帰る前に高校生活の最初で最後の文化祭を眺める。

 テントの影になって見えないが、焼きそばかお好み焼きでも焼かれているのだろうソースの匂いがする。『巨大おばけ屋敷in体育館』と書かれた看板を担いで歩いているゾンビナースの姿がある。水鉄砲での的当てでサッカー部のいじられキャラのような男が的になって水を避けて遊んでいる。本格的なハンディカメラで文化祭の様子を撮っている緑色の全身タイツの男が、スマホで撮影する赤色の全身タイツの男に何か話している。そこかしこから笑い声が聞こえる。

 灯子ほどでは無いにせよ、仁もあまり文化祭に乗り気ではなかった。しかし、この様子を見ると感傷的な気持ちになる。

 スマホが震えた。灯子から返信があった。

『人多すぎ 行かなくてよかった』

『僕も人混みは苦手だけどさ、屋上から見てる分にはエモいよ』

『屋上いんの? それは羨ましい!』

『今からでも来たら?』

『悩む けど平日のこの時間にベットでゴロゴロするのも捨て難い』

『屋上でも寝れるよ。さっきまで寝てた』

『ブルーシートか何かあるの?』

 仁は垂れ幕の上で寝たことを伝えるか迷った。

 実際に寝たのは屋上ではなく、その手前の屋根のある階段の踊り場で、そこにあった垂れ幕を使っただけだった。

『ないよ』

 仁の価値観として、踊り場にあるものを踊り場内で使用するのは良いが、勝手に屋上に出すのは抵抗があった。垂れ幕が真っ白であり汚してはいけないというのもあり、灯子に敷物があるとは返信しなかった。

『床に直寝?』

『そうだよ』

『若干潔癖なんだよなー』

『僕もだよ』

『トイレットペーパー身体中に巻き付けといて潔癖はないだろ』

『使ったトイレットペーパーじゃないよ』

『使ってなくても嫌だろ』

『そうかな』

『そう 潔癖だから行かない』

 仁は、ため息を吐く表情の顔の絵文字だけを返した。

 文化祭の様子を眺める。

 高校生活最初で最後の文化祭だ。

 できれば、灯子に学校に来て雰囲気だけでも感じてほしかった。

 仁は床に直に寝転がった。実際には仁は全く潔癖ではない。

 視界には青空が広がる。

 ソースのいい匂いがする。

 学生たちの楽しそうな喧騒が遠くに聞こえる。

 暑くも寒くもなく、涼しいそよ風が肌に当たる。


 令和五年十月三十一日。

 午後一時ごろ。

 仁は豪雨の中で目を覚ました。

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