文化祭の最中 2

 令和五年十月三十一日。

 午前九時ごろ。

 仁はトイレの個室から出るか悩んでいた。

 特別な理由がなくとも金子には出会いたくはないのに、フラッシュモブの件がある今はより出会いたくない。

 ただ、このままトイレで時間を潰し続けることもできればしたくはない。

 個室の中、便器の前で行ったり来たりを繰り返す。

 灯子に現状を伝え、どうすればいいと思うか訊いたが、返信がない。

 恐る恐る個室のドアを開ける。近くに人の気配はない。遠くからの文化祭を楽しむ声が聞こえるが、トイレの外の気配は分からない。

 ゆっくりとトイレの出入り口まで近づく。洗面台の鏡に仁の姿が映る。トイレットペーパーが不恰好に巻かれている。制服の上から巻きつけたため、制服が少し透けていた。そして、顔には何も巻かれていない。

 これでは、金子に会った時に仁であることがバレてしまう。最悪金子に見られても遠目であれば誰か分からないように、顔にもトイレットペーパーを巻くことにする。

 顔は体に比べて簡単に巻くことができた。頭の先からくるぶしまでトイレットペーパーに覆われた不恰好なミイラ男が完成した。流石に裸足になる気にはなれず、足には白い上履きを履いている。

 トイレからゆっくりと出た。周りに人の気配はない。一応ペンキの様子を確認するが全く乾いてはない。

 ここから動くとしたら、二階の廊下か三階への階段がある。

 仁は文芸部に所属している。文芸部室は部活棟の三階の一番階段から遠い位置にある。部室棟の各教室の鍵は校舎の一階にある職員室にあるため、鍵を取りに行くことはできない。しかし、戸締りを忘れて開いている可能性はある。

 足音を殺して三階に上がる。

 顔だけを覗かせて三階の廊下を覗くが人の気配はない。どこかの教室に金子がいる可能性があるため、中腰で廊下を歩く。

 文芸部室の前に着くと鍵はかかっておらず、扉が数センチ開いていた。隙間から中を見ると同級生の木島きじま美空みそらがいた。木島も仁と同じ文芸部員だ。S高等学校は部活への入部が必須であるため、文芸部に籍をおく実質的帰宅部が多くいるが、木島は数少ないきちんと部活動に参加している文芸部員の一人だった。

 木島は椅子に座り姿勢良く本を読んでいたが、仁の気配に気がついて顔を上げた。仁の方を向いて、露骨に嫌な顔をする。

 仁は木島とは仲が良いというわけではないが、嫌われているわけでもないと思っている。嫌な顔をさせる理由に心当たりはない。仁が普段と違う様子の木島に戸惑っていると、木島は何かに気づいた様子で、

「だ、誰?」

 と訊ねてきた。

「月原だけど……」

「あぁ、月原くんか」

 木島は、普段の柔らかい表情に戻って言った。

「ごめんね。また、金子くんが来たのかと思って嫌な顔しちゃった」

「僕が金子に見えたの?」

「そう。同じ格好してたから。でも、よく見ると大分違うね。なにそれ、トイレットペーパー巻いてるの?」

「そうだよ」

「仮装とかしないタイプかと思ってた」

 そう言う木島は、普段通りの制服姿だった。

「本来しないタイプなんだけど、なんか強制でミイラ男の格好をすることになっちゃってさ」

「なんかやるんだってね」

「うん。ただ、サボってもバレなそうであればもう帰っちゃおうかなとも思っているんだけど」

「そっか。あ、でも、階段にペンキが溢れてて今通れないって」

「知ってる。さっき見たけど、まだ乾いてなかったよ」

「閉じ込められちゃったね」

「そうだね」

 しばらくの沈黙のあと、木島は読書に戻った。仁との会話は終わりらしかった。

 仁はこれからどうしようか悩んだ。部室で時間を潰すのも悪くない。木島とは文芸部室で二人きりになることもよくあり気まずくはない。手近の椅子に座りスマホをいじる。トイレットペーパーに巻かれ制服のポケットが使えないため、スマホを握りっぱなしだった。手のひらのトイレットペーパーが手汗で寄れている。

 特にすることもなく、ネットニュースをぼーっと眺める。大きなニュースではなく、地元のニュースを主に見ていた。位置情報が収集され勝手におすすめに表示されるのだ。近所のコンビニの跡地に何ができるのかや、近くの駅で起こった交通事故のニュースを特に何も考えずに流し見した。

 窓の外では、文化祭を楽しむ声がしている。部室の窓は開かれていて、外の音はよく聞こえた。グラウンドに向けた背景の描かれた垂れ幕のせいで、グラウンドの様子を目で見ることはできない。そこには真っ白な垂れ幕の裏だけが見える。

 仁が窓を眺めていると、木島がそれに気づいた。

「外の音で、雰囲気だけでも楽しもうと思ってさ」

「最初で最後の文化祭だもんね」

「そうだね。『ひらがな』も出せれば良かったんだけど」

『ひらがな』は文芸部が文化祭に合わせて作っている部誌の名前だった。文芸部で執筆活動をしているのは木島だけで、一人分の作品だけでは部誌にならないと言うことで今年の文化祭での発行は見送られた。

「うん。そうだね」

「………………」

「そういえば、なんで部室にいるの?」

「うーん。なんかみんな、初めての文化祭で浮き足立ってる感じがしたから、雰囲気が落ち着いたら見て回ろうと思ってて。それまで、部室で本を読──」

 木島の言葉を遮るように、窓の外からドーンと何かが倒れたような大きな音とキャーという悲鳴が聞こえた。

「何かあったのかな?」

 木島はそう言って窓の外を見ようとするが、そこには真っ白な垂れ幕の裏があり、グラウンドの様子を見ることはできなかった。

 音のあった方向から何かを注意する声がした。怪我がないかと確認する声もする。その声のトーンが少しづつ収まっていくと、何やら揉めている声がする。注意して聞くが、いくつかの会話が重なってよく聞き取れない。断片的に聞こえた情報から察するに、テントが崩れたようだった。

「落ち着くかな?」

「落ち着いてほしいなぁ」

 仁と木島はお互いに目を見合わせ、苦笑いを向けあった。

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