第13話 七度打たれど燃えぬ君

 霜蟲しもむしの大群が、リーザを覆いつくそうと群がってくる。リーザはシィと短く息を吸うと、駆ける足も止めることなく、右腕を伸ばした。


『堕ちて、唸れ——夏の轟歌とどろきうた


 リーザが三つ、指を鳴らす。すると、たちまちリーザの指から火のいかづちが走って、次々と霜蟲しもむしたちを地へ叩き堕とした。しかし、それでも無数の霜蟲しもむしが群がってくる。


(木円盤がないから、木霊と共にちゃんと夏を呼べない……!)


 リーザが肌身離さず持ち歩いていた木円盤は現在手元になく、離れた所で既に霜蟲しもむし群に覆われている。夏呼びの手伝いをしてくれる精霊たちが宿るあの木円盤が無ければ、リーザの夏呼びは本領が発揮できないのだ。

 リーザは思わず唇を噛みしめるが、何とか霜蟲しもむしたちを小さないかづちで振り払いながら、霜蟲しもむしたちの群れの中心へと迫る。ついに、あの王霜蟲おうそうむたちの姿も見えてきた。


「? ……何の、音だ」


 もはや聴き慣れた低音の声が確かに聞こえた。シムルグだ。

 リーザが目を凝らすと、霜蟲しもむし王霜蟲おうそうむの塊の中——その一面の真白から微かに、輝く冬蛇ふゆへびの鱗の手が垣間見える。リーザは必死に叫んで、己の手を伸ばした。


「シムルグ!」


 リーザが鱗に覆われた大きな手を握って、霜蟲しもむしたちの中から引き寄せる。そうするとシムルグはいともたやすく、リーザのもとへと姿を現した。しかしシムルグは、リーザの前で糸の切れた人形の如く、すとんと崩れ落ちて、地に膝を着いてしまう。

 リーザはそんなシムルグの姿を目にして、言葉を失った。


 リーザが手を握っている反対側のシムルグの半身は既に霜に覆われて、片目も開けられないほどに凍っていた。シムルグはたださえ白い顔を更に青白くさせ、か細く短い息を肩で繰り返し、明らかに衰弱している。

 こんなにも苦しそうな思いをして、いつもシムルグは眠っているのか。

 その事実をまざまざと突き付けられたリーザは、胸の奥で激しく熱い火花が止むことなく弾けだすのを感じた。


「……だれ、だ」


 シムルグはリーザを幻でも見ているかのような遠い眼で見上げるが、すぐに我に返って息を吞み、己の手を握るリーザの手を乱暴に振り払って怒鳴り声を上げた。


「は……お、まえ……こんな所で何してる!? 早くここを離れろ、馬鹿が! 死にてぇのか!?」

「死ぬよりも……今ここで、シムルグをひとりにするのは、もっといやだ!」


 リーザも負けじとシムルグに向かって大声を張り上げる。そして再び、凍っていないシムルグの手を握った。シムルグはすぐに振り払おうと藻搔くが、衰弱した身体ではリーザにさえ思うままに抗えない。


「やめ、ろ……! 只人が、俺にれるな! さっさと逃げろ!」

「うるさい! 只人だろうが何だろうが、わたしは宮廷霜祓い! 霜蟲しもむしの牢獄の中だろうと、常冬の世界だろうと! いつ、いかなる場所でもわたしは、シムルグに夏を届ける!」


 不意に、王霜蟲おうそうむたちがシムルグの背に取り憑こうとする。リーザは素早く空いてる手を伸ばし、指をカン! と力強く鳴らすと、小さないかづち王霜蟲おうそうむの動きを止めた。だが、それもほんの少しの時間しかもたない。


「この、大馬鹿が……くそ……」


 いよいよ、シムルグの意識も危うくなってきたようだった。シムルグはそばにあった大きな何かに寄りかかる。リーザは霜に覆われたそれにようやく気が付いて、大きく瞳を見開いた。


「これ、さっきわたしとシムルグが寄りかかってた木……! しかも、ナナカマド!」


 王霜蟲おうそうむを祓うには、リーザは何としても樹木や花草たちの精霊の力を借りて、全身全霊の夏呼びをしなければならないと思っていた。いつも持ち歩いている木円盤がない今、力を借りるならこのナナカマドの木しかない。

 リーザは即座にそう思い至ると、シムルグへと寄り添い、握っているシムルグの手と共にナナカマドの木へと触れた。シムルグは既に閉じかけている片目を凝らして、リーザを見やる。もう、声を出す気力さえ残っていないようだった。


「……」

「心配しないで、シムルグ。わたしは、あなたが認めた宮廷霜祓い。だから、見ていて欲しい」


 リーザは栗色の瞳を伏せて、深く息を吸い込んだ。


春夏しゅんかの女王が火種のもと。我が声にいらえ——ローワン』


 リーザの異邦の言葉と共に、リーザとシムルグの手が触れている箇所から、ナナカマドの木を覆っていた白霜がみるみるうちに溶けてゆく。

 リーザは凛とした声で、狼の遠吠えの如く美しく歌い始めた。


『いざや、歌おう。いざや、詠おう。気高き玉座は眩く煌き。揺れる大地は歓喜に轟く。聡きは白く、堅きは赤く。魔を退け、魔の如く愛しき君——ローワンよ。我らは謳おう。愛しき御霊のおとないを』


 リーザが歌うと、リーザたちとナナカマドの木を囲むように、遥か頭上で円状の火のいかづちが浮かび上がった。いかづちは白銀色と赤色の火花をバチバチと散らす。火花を浴びた、辺りの草原からは夏の植物たちが蠢きながら顔を出し、天に向かって昇り始める。

 リーザや植物、ナナカマドの木が発する熱によって、地表からは風が巻き起こった。その熱風によって既に身体を覆う霜が溶け切っていたシムルグは、大きく蛇の眼を見開いて、隣にいるリーザを見る。リーザはシムルグの視線に流し目で応えて、小さく微笑み、頷いた。


『常夏の魂をもつ子らよ——いざや、歌おう』


 いつも、リーザの歌声は歓喜に満ち溢れていた。


『聡きは白花。落つる葉と実は血潮の音。王の鼓動に七度打たれど燃えぬ君。不燃もえずの肉を、大地と成して。鳴る神と共に、鈍色とばりのおとないを歌え』


 最後にリーザは空いている手で、カン、と指を打ち鳴らした。すると、リーザたちを囲む円状のいかづちがドォン! と轟音と共に弾けて、柳の枝垂れの如く光の弧を描いて散ってゆく。

 いかづちの火花は未だ地表から吹きすさぶ風によって舞い上がり、辺りで咲き誇る夏の花草に降り注いで、きらきらと輝いている。


 リーザは気持ちよさそうに、夏の風と降り注ぐ光の欠片を受けながら微笑む。


 この世のものとは思えぬほど美しい光景から、目など離せなくて。シムルグはしばらく、わななくように羽音を立てて飛び去る王霜蟲おうそうむたちにも気が付かなかった。


 ◇◇◇


「手、見せろ」


 一匹残らず霜蟲しもむしが飛び去った、ナナカマドの木の下で。しばらく木に凭れて呼吸を整えていたシムルグは、ようやく口を開いた。リーザはどこか困った顔をしていたが、シムルグの有無を言わせない鋭い蛇の眼光に気圧され、おずおずと手を差し出して見せる。

 シムルグの手を握っていたリーザの手は所々が赤くなっており、微かに皮がただれていた。それを目にしたシムルグは、静かに長い吐息を漏らす。


「……馬鹿。だからあれだけ、れるなと言っただろうが」

「でも、こんなの痛くも痒くもない。砂にもなってない。やっぱりもっと上手く体温をあげることが出来たら、夏が宿るわたしの肉体には、シムルグが怖がってる冷気の毒、効かないよ」

「うるせぇ。こうして怪我する可能性はあるだろうが。……もう二度と、俺にはれるな」


 シムルグは恐ろしいほど静かな低い声で、吐息と共にそう零す。


「……シムルグ、教えて」


 蛇の眼を伏せて、未だ肩で呼吸するシムルグをリーザは真っ直ぐ見据えて尋ねる。


「霜の中でひとり眠るのは、恐ろしいほど寒い。寒くて苦しくて、痛いほど寒くて——さみしくて、堪らない。そうでしょう?」

「……だったら、なに」


 シムルグは微かに眼を開くと、ぞっとするほど冷めきった蛇の血の色で、リーザを刺した。

 リーザはその視線に思いがけず息を吞むが、夏色の強い光を宿した瞳は揺らぐことなく、シムルグを見つめ返す。


「そう、だったら。わたし——」


 ふと、遠くからベルーガの声が響いてきて、リーザの言葉を遮った。

 シムルグはふらつきながらも立ち上がってゆるりと歩き出し、座っているリーザの細い肩をすれ違いざまに一度だけ軽く叩く。


「悪い。大人げない態度をした——お前にはまた助けられた。ありがとう。だが、もう二度とこういう真似はするな。只人はすぐ死ぬ。お前が馬鹿やって死ぬところなんざ、見たくもねぇ」


 シムルグはいつもの声色でそう残すと、何事もなかったかのような足取りでベルーガのもとへと歩いて行った。


「霜祓いの応援を呼んできた! 殿下、無事か!? リーザちゃんは!?」

「俺は大事ない。ベルーガ、お前はを看てやってくれ。試しの儀の結果と王霜蟲おうそうむの報告は俺がソーカルにしておく」

「って、おい! 殿下!? ……ったく、相変わらず愛想のねぇ殿下だ」


 淡々と言って、ベルーガをも通り越し、スカラ城へとまっすぐ歩いていくシムルグ。リーザはその大きくて——しかしどこか、儚くも見えるシムルグの背中を、無意識に唇を強く噛み締めてひたすら見つめていた。

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