第6話 初めての夫婦対面

「おはよう、シムルグ」


 茫然と第一王子にしばらく見惚れていたリーザは、いつの間にかすぐ隣に立っていたソーカル王の声で我に返った。

 ソーカル王の呼び掛けからして、この第一王子の名は「シムルグ」というらしい。そんなことを考えながらも、慌ててリーザは木円盤を腕に抱えて、ソーカル王の二歩後ろへと控える。


「もう、夏が来たか。……国内外の情勢、今年の凍霜害とうそうがいの方はどうなってる? ソーカル」


 シムルグはソーカル王へと慣れたように尋ねながら、眠たげに片手で両の目尻を抑えてすっとその場に立ち上がる。

 そんなシムルグにソーカル王は小さく笑いを噴き出し、如何にも楽しげな様子でシムルグを見上げた。


「いーや。まだスメイアの季節は春にさしかかったばかりですよ、シムルグ」

「ああ? んなわけねぇだろ。何言ってやが」


 そこでようやく、リーザはシムルグと一瞬だけ目が合った。シムルグの鮮烈な赤い蛇の眼で直に見下ろされて、リーザは無意識に息を呑む。

 シムルグは、リーザを見るなり眉間に皺を寄せ、訝しげな表情でソーカル王と見比べた。


「なんだ、このガキは。か?」

「いーや? この娘は、今日から宮廷霜祓い及び——シムグル。君のお嫁さんになった人だよ」

「……は?」


 ソーカル王があまりにもあっけらかんとした様子でリーザの嫁入りをシムルグに宣言するので、リーザは思いがけず漏れそうになった「え」という声を何とか呑み込む。

 そして、恐る恐るシムルグの顔色を窺うと、シムグルはあからさまに険しい表情を露わにして、眉間に刻まれた皺を更に深くしていた。


「お前……を忘れたわけじゃねぇよな? 国王であるお前も含めた王子王女は、配偶者及び子も持つことは固く禁じられているだろうが。いつもの悪ふざけにしても度が過ぎる」


 シムルグは心底呆れたように、首を振った。

 王族の掟。リーザは初めて聞くことだ。国王含めた王子王女が、配偶者どころか子も持つことを禁じられている——ということはその掟にとって、第一王子に嫁いだリーザは禁忌以外の何者でもない。

 困惑しかないリーザは目の前にいるソーカル王をそわそわと見つめるが、ソーカル王は相変わらずお茶目に片目を瞑り、自信満々にシムルグへと人差し指を立てて見せる。


「正しくは、国王含めた第二王子、第一王女以降の王子王女が配偶者と子を持つことを禁じる、ね。つまり、の王族に科せられた掟なんです、それ。だから、第一王子であるシムルグ、君だけは配偶者も子も持つことを許されてる——あ。あと疑い深い君のために、掟が記された地下石碑の写しもちゃーんと持ってきましたよ~。ほれほれ」


 差し出された写しに一通り目を通したシムルグは一瞬微かに眼を見開くが、すぐに苦々しげな様子で眉を顰めてしばらく考え込むように口元を大きな片手で覆う。


「やっぱり、第一王子だけはなんだよ。いにしえから、ずうっとね」


 ソーカル王のその静かな呟きを耳にしたシムルグは、短く舌打ちを鳴らして、荒々しく真白の髪を搔き乱した。


「クソ……じゃあなんだ。そこの小娘との婚姻は、暴君ソーカル王からの王命ってとこか」

「ご明察! いくら特別な第一王子である君とて、現国王の僕の王命には逆らえないね!」

「うるせぇ」


 ぐっと親指を立てて晴れやかな笑みを見せるソーカル王に、ほとほと呆れ果てたようにシムルグは長く重い息を吐き出した。

 二人の様子を落ち着きなく見つめていたリーザは、やはり不安が拭えない曇った表情で微かに俯く。そんなリーザをちらりと一瞥したソーカル王は、リーザの細い肩を抱き寄せ、トン、とシムルグの前にリーザの身体を押し出した。


「それに、君のお嫁さんになったこの娘は、未だ冬のとばりも上がりきっていない春先の今。あの霜蟲しもむしたちを祓って君を目覚めさせたんだ。まさしく逸材の霜祓い——君にこそお似合いなお嫁さんだと思うけど?」


「ご覧。彼女のおかげで、君の塔の中も夏色に染まって賑やかになった」とソーカル王が視線を巡らせるのに倣って、シムルグも東塔の中一帯を見渡す。


 まるで、夏の森の如く草花や低木が所狭しと生い茂った異様な塔内にようやく気が付いて、シムルグは啞然としたように目を大きく見開いていた。

 そういえば、シムルグに群がっていた霜蟲しもむしを祓うためとはいえ。東塔内をこんな有様にしてしまったのは、いくら何でもいけない事なのではないか、とリーザは思い至って慌ててシムルグに頭を下げた。


「ごめんなさい! 第一王子、さん……! すごくたくさんの霜蟲しもむしが、あなたに取り憑いてたから……はやくあったかくしたくて。たくさん夏を呼んでしまった、です……」

「……お前が、これを」


 シムルグの視線が自分に注がれるのを感じて、リーザは更に深く頭を下げる。


「わたし、恩返しと、生きるためにここへ来ました。わたし、何も持って無くて……家族も、帰る場所も、ひとりで生きる知恵も、綺麗なお顔と身体も無い、です。だけど、たったひとつだけ。できること、あります」


 リーザは木円盤を抱え直して、勢いよく頭を上げる。直に、シムルグの蛇の眼と視線が合った。


「あなたに夏を、届けます」

「……」


 シムルグは黙ってリーザを見据えていた。リーザはシムルグの鋭い眼光にも臆することなく、その血のように赤い眼を見つめ返す。リーザの揺らぎない栗色の瞳は、シムルグに何かを連想させたようで。シムルグはリーザの瞳越しに、どこか遠くを見ているような気がした。

 しばらくして、シムルグは一度だけ短く蛇の眼を伏せると、深いため息を吐き出して、未だにヘラヘラとした笑みを浮かべているソーカル王を一瞥しながら低い声で尋ねる。


「湯は沸かしてあるか」

「もちろん」

「わかった。じゃあ俺はまず湯浴みを済ませ、身支度をする。諸々の詳しい話はその後だ。ソーカルはここ一年の報告を忘れんじゃねぇぞ」

「はいはい、わかってますって」


 シムルグは速い足取りで東塔の出入り口へと向かおうとするが、リーザのすぐ隣まで来て、足を止める。そして、リーザを間近で見下ろしながら、短く言葉を連ねた。


「シムルグ・ガデューカ・ヤーシシリツァ。お前の名は?」

「! ……わたしは、リーザ」


 リーザは咄嗟にシムルグに向き直って、身体の大きいシムルグの耳にも届くように声を張った。シムルグはリーザの返しに軽く頷くと、東塔の扉を足早にくぐり抜け、その場を後にする。ソーカル王も、リーザに軽く手を振って見せながらシムルグの後に続いた。


 遠ざかってゆくシムルグの大きな背中。なぜかリーザは、見えなくなるまでその背中から目を離さずにはいられなかった。

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