常夏姫と冬蛇の王

根占 桐守(鹿山)

第一章 冬解けの息差し

第1話 夏呼びの異邦娘

 春の匂いがする。雪解け水で湿った、濃い土の香りだ。

 ここ、北大陸の人々は、この春の匂いに懐かしさを覚えるという。しかし、少女だけは違った。


「花のにおい……しない」


 白金色の睫毛で縁どられた瞼を伏せたまま。春の未だ冷たい風を呑んでいた少女リーザは、己の産まれ故郷の春の匂いを忘れていないことにほっとしながら、小さく息を吐く。


「おーい! さっさと妖術を見せてみせろ、異邦娘!」


 ふと、北大陸語の大声が耳をツンと刺して、リーザは己が大勢の観衆に囲まれていたことを思い出した。いつの間にか観衆の野次が騒がしい。

 俯いたまま視線を巡らせると、下僕のリーザの主人である見世物屋の男が苛立たしげにこちらを睨んで顎を振っている。リーザは鉄枷のはめられた両手で抱きかかえている、大きな木製円盤を足元にそっと置くと勢い良く顔を上げた。

 腰まで届く、白金の滑らかな髪がふわりと春風に浮かび、淡い陽の光を美しく反射する。リーザは明るい栗色の瞳を溌剌と瞬かせ、拙い北大陸語で観衆に呼び掛けた。


「この、汪夏おうか帝国のおかんむりに! わたしが、〝夏〟を届けます!」


 すかさずリーザは、地に置いた木製円盤の上にぴょんと飛び乗る。古びた円盤には何やら妙な象形文字や紋様が所狭しと円の縁に沿って刻まれているが、観衆の多くの汪夏人おうかじんは読み取ることなどできない。この地では滅多に見られない踵が高い長靴を履いたリーザはそのまま、紋様が描かれていない円盤の中心部を片足の踵で叩いて、コツン、と小気味よい音を響かせた。

 円盤を叩いた片足を軸にくるりと軽やかに回って、背後を振り返る。そこには、未だ蕾も出ていない、夏が季節の花——〝睡蓮〟の葉が無数に浮く水場があった。


『白きは常夢。赤きは儚し。揺蕩たゆた水面みなもは君のおもい。溢るる水にいらう君よ。大地に根付き、枝葉を広げる水木みずきの君よ。猛き王の雨と、共に在れ』


 よく通る、耳に心地好い凛とした声を以て、リーザが異邦の言葉を歌った。すると、リーザの木円盤から金色の火花がパッと弾け、睡蓮へと降り注ぐ。火花を浴びた睡蓮の葉は、なんと生き物の如く蠢き出し、次々と蕾までもが顔を出し始める。あわせて、微かに辺りの地面に降りていた春霜も、あっという間に溶けて無くなってしまった。

 そのあまりにも奇妙な光景に、観衆たちは慄くような歓声を上げる。しかし、それらにも構わず、リーザは恐ろしいほど美しく歌い続けた。


『いざや、歌おう。いざや、詠おう。揺蕩たゆた水面みなもは君のおもい。溢るる水は君の夢。ドッグウッドの御霊にいらえ。眠れる君よ。猛き王を待つ水華みずはなの君よ。我ら、王の使徒と共に、王のおとないを謳おう』


 リーザの歌に応えるように、水面に浮いた全ての睡蓮の蕾が、ふるふると震えだす。リーザは睡蓮たちを導いて、また一つ、コン! と踵で木円盤を打ち鳴らした。


『目覚めたまえ——我らが姉妹ジレフール、ウォーター・リリィ』


 途端に、全ての睡蓮の花々がふわりと咲きほこった。一瞬、大勢の観衆たちがしんと静まり返るが、すぐに驚嘆の声がわっと爆発する。


「さ、咲いた……本当に睡蓮が咲いたぞ!?」

「開花の季節はずっと遠いのに……!」

「まだ寒い、この春先に!? 信じられん!」

「あ、あれ? ……さっきまで寒かったのに、す、すごく暖かい……?」

「これがこの北都中で噂になっとる、〝夏呼び〟の妖術か……!」


 リーザは木円盤を再び両腕に抱えると、深々と頭を下げる。そして、近くで見世物屋の主人が見世物料を回収し始めたのをちらりと確認した。


(季節外れの時期に、無理やり起こして……ごめんなさい)


 リーザは顔を上げながら、背後の睡蓮たちに内心で小さく謝った。見世物屋の主人に逆らえば、生まれも素性も知れないリーザは妙な〝妖術〟を扱う異邦の不審者として、ここ汪夏おうか帝国の帝国兵に突き出され——殺されてしまうかもしれない。それだけは、避けなければならなかった。


「あ……霜蟲しもむし


 見世物料を観衆たちから回収している主人の頭上に、人の頭ほどの大きさをした白い蟲が飛んでいるのをリーザは見つけた。

 それは、〝霜蟲しもむし〟と言い、この北大陸ではそう珍しくない生き物。動植物や人に取り憑いて、いたずらに体温を吸収したり、霜を残していく蚕の成虫に似た姿を持つ蟲である。霜蟲しもむしは夏以外の季節となると、時に甚大な凍霜害とうそうがいをも引き起こす、いわば害虫であるので、霜蟲しもむしを追い払う仕事を職とする人々は〝霜祓しもばらい〟と呼ばれていた。


(私……霜祓しもばらいになるために、北大陸に渡って来たんだけどなあ)


 リーザは、遥か大海を超えた先にある西大陸の出身であり、およそ一年前にこの汪夏おうか帝国も位置する北大陸へと渡って来たのだった。その目的の全てが、生まれながらに持った〝夏を呼ぶ〟という己の特異な体質を活かし、霜祓しもばらいと成って誰かの役に立つため。

 しかし、どうにも現実というものは上手くいかない。リーザは北大陸の汪夏おうか帝国帝都に到着する目前で、乗りかかっていた船が大嵐によって沈没してしまい、ほぼその身一つで汪夏おうか帝国北都へと漂着した。そして運悪く、珍しい異邦人の見目であるからと見世物屋の下僕として売り飛ばされ、現在に至る。


「……でも、だいじょぶ。死ぬことさえなければ、きっと、だいじょぶ……!」


 観衆たちの好奇や蔑みの視線に全身を突き刺されながらも、リーザは己を鼓舞するように小さく呟く。

 リーザは下僕となろうが見世物にされようが、霜祓しもばらいへの夢を未だ諦めることはなかった。

 北大陸へ渡って来て、たった一年。時間はまだまだある。きっと、いつか。自分も誰かの役に立つことが出来る人間に成れる。

 産まれ落ちてからの、長年の夢。それは、リーザにとって絶対に叶えなければならない夢であり、唯一の生きる糧であった。


 ◇◇◇


 その少女が、耳慣れぬ言葉で歌うと、大地を凍てつかせる春霜しゅんそうは溶けて消え去り。辺りにいた霜蟲しもむしたちが一斉にいずこかへと飛び去る。そして、未だ冬の残り香に支配された冷たい春には蕾すら出すことがないはずの睡蓮まで、無数に咲きほこった。

 遠くでそれを片時も目を離さず見つめていた男は、馬の上でひゅうと口笛を鳴らして思いがけず笑みを浮かべる。


「へぇ、あれは噂以上! まるで夏の化身だ……君もそう思わない? ラース君」


 男は軽薄な笑みを浮かべたまま、己の背後を振り返る。そこには、同じく馬上で遠くの少女を険しい顔で見つめていた年若い青年がいた。青年は険しい表情のまま男に視線を戻し、どこか警戒するような低い声で尋ねる。


「ああ……やはりあれは、西大陸で見られる〝魔法〟とかいう奇術に似ている。それで? 何か他によからぬことを考えているようだが……陛下」

「ふっふっふ……流石はラース君、鋭いねぇ。だけど、僕が考えてるのはよからぬことなんかじゃない。とってもさ」


 男の視線は再び少女を捕らえる。そして、ずいぶんと楽しげな声を弾ませた。


「あの娘——お嫁さんにしよう」

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