第3話 緑色の風船
失恋をした。
寄り道をしないで家に帰り、自分の部屋で傷心しきった心を絞るように静かに泣いた。もう一か月も前のことだから彼のことは考えない、そう思えば思うほど涙が溢れてくる。
「七海?ご飯いらないの?」
母の声がドアの向こうから聞こえた。そんなに自分は泣いていたのかと思い、時計を見ると時間は19時を少しだけ過ぎていた。
涙を毛布で拭い、部屋のドアを開けると母は私を見て驚いた顔をしていた。
「七海…大丈夫?」
不安そうな母の顔を見て、精一杯の作り笑顔をして部屋から出た。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」
悲しくても、不思議なことにお腹は空く。お母さんのご飯はとても美味しくて、大好きだったけど、あの日以来ご飯の味がしない。それでも生きるために私は今日も味の無いご飯を無理やり口にねじ込み、飲み込んだ。お風呂に入る気になれず、シャワーだけ浴びて歯を磨いてすぐに布団に入って眠りについた。
朝、一度寝れば少しは気分はよくなると思ったが、胸のあたりのもやもやとした感覚はそのままだった。食欲は無かったが、せめて何か食べなきゃいけないと思いトーストを一枚食べたがすぐに戻した。
もう一度歯を磨き、水を一口だけ飲み、ぼんやりとした感覚のまま玄関に向かった。
靴を履き、玄関のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた物に心臓が止まりそうになった。
「なんでこれが、ここに…」
そこには、緑色の風船がふわふわと浮いていた。
糸の先に何もついていないそれを眺めていると、目の前に立ちふさがっていた風船が右にずれた。
不気味なそれの横を、カバンを盾にしながら通り、風船から目を離さないように後ろ向きで歩き、廊下の先にあるエレベーターに向かった。
壁にぶつかり、手触りでエレベーターだとわかった私は、一瞬だけエレベーターの方を向いて「↓」のボタンを押し、すぐに風船の方を向くと目の前に風船が浮いていて、腰を抜かしそうになった。
すぐにカバンを前に構え、少しの間風船を睨みつけていると後ろから「チン」という音と共にエレベータの扉が開いた。
そのまま、風船を凝視しながらすり足で、後ろ向きにエレベーターの中に進み、壁に背中が当たると風船はゆっくりとエレベーターに乗ってきた。
風船から目を離さないように手探りで一階のボタンを押すと、エレベーターのドアが閉まった。
静まり返ったエレベーターの中で、心臓をバクバク鳴らしていると一階についたアナウンスがなり、扉が開いた。
幸いなことに、外にはエレベーターを待っている男性が一人居た。
小走りでその人の横を抜け、振り向くと、男性はエレベーターの中に入ろうとしていた。
風船がもう追ってこないことに胸をなでおろしていると、風船が男性をすり抜け、そのままゆっくりと私へと近づいている。
自分以外にあれが見えていないんだと悟った私は、走って学校に向かった。
学校につく頃には、風船は見えなくなってきた。
普段は走ることはなかったので、死にそうになりながら階段を上って自分の教室に向かった。
教室の引き戸を開けると、みんな拓海の机の周りに集まっていた。
相変わらず彼は人気者だなと思った。
私はみんなと違って、近づくだけで泣いてしまいそうで、拓海の机には近寄らなかった。
頭が回らないまま、四時間目の社会の授業が終わった。
お昼ご飯はいつも自分の席で食べていた。
左を向けば、外が見えて見晴らしがいいのが気に入っている。
この日も、いつものように外を眺めていると、あるものを見つけて思わず目をぎょっとさせた。
あの緑色の風船が校門からふよふよと風に揺れながら、じりじりと校舎に近づいていたのだ。
私は席を立ち、もう一度目を凝らした。
何かの間違いか、それとも何かのドッキリか。
とにかく、見間違いであることを願ってもう一度確認したが、あれはまごうことなき朝に見た風船だ。
六時間目が終わり、ホームルームが始まった。
そして私の右後ろには、風船が浮いていた。
正確に言えば五時間目の途中からすでに後ろに居た。
周りの反応から察するに、朝の男性のようにやはり私以外には見えていないようだ。
そのまま、私は風船を引き連れて下校を始めた。
めったに通らない道を選んで、周りに人が居ないのを確認してから風船に話しかけてみた。
「おい」
私が立ち止まったのと同時に、風船も立ち止まったが返事は無かった。
当然と言えば当然だが、自分にしか見えない風船なら、返事ぐらいしてもいいだろうと思った。
風船に近づき、指先で突こうとしたが、私の手を避けたので意思はあるみたいだ。
「なんで、私をつけてくるんですか?」
鞄の取っ手を強く握ってそう質問してみた。
返事は無いだろうと思ったが、風船は一度だけくるっと回った。
ふわふわと宙を漂っているだけだったのが、あからさまに違う行動をした。
「何かを伝えたい?」
強く握りしめた手を緩めて風船にそう聞くと、驚くことに風船は肩に「ぼんっ」と体当たりをしてきた。
しかし、わかったのは何かを私に伝えたいということだけで、それ以外は全く分からない。
緑色の風船の目的は何でしょうなんて水平思考クイズがあれば、かなりの難しさだ。
そのうえ、出題者が「はい」か「いいえ」も言えないなら、なおさら答えを出すなんてほぼ無理だろう。
「喋れないなら何か考えてみるよ」
風船を連れながらあれこれ考えていると、いつの間にか家に辿り着いていた。
玄関の鍵を開け、中に入り靴を脱ぐ。その時、風船が家の中に入ってないことに気が付いた。
まさかと思い、玄関を開けると風船は朝のように玄関の前でふわふわと浮いていた。
「家に入れないの?」
すると風船はふわふわと左右に揺れた。また一つ、家の中に入れないという謎が増えた。
玄関を閉め、靴を揃えた後に台所に向かった。そして、コップ一杯の水を飲みほした。
その日は、悶々とした気持ちのまま夕食を食べ、お風呂に入り、眠った。
※
それから一週間、朝に玄関の前で風船と合流しては、学校に向かった。
登校中も、授業中も、下校中も風船は常に私の近くに居た。さすがにトイレの中までは入ってこなかった。
日曜日は、部屋に籠って風船の謎を解こうと思ったが気が付くと寝ていて、起きた時には夕方だった。
今日、お母さんは仕事先の人とご飯で居ないから自分で何か作らなければならない。
台所に立った時、外で雨が降っているのに気が付いた。
そして、あの風船はいま玄関の前にいるのだろうかという思考が頭をよぎり玄関に向かい、鍵を開けた。
玄関を開けると風船はそこに居た。
外は雨が降っていて、冷たい風が家の中に入ってきていた。
「中、入りなよ」
この外に放置するのがなんだかかわいそうで、風船にそう言うとすーっと家の中に入ってきた。
風船が少し濡れていたので、洗面台の横の棚からタオルを一枚取り、振り向くと風船はすぐ後ろに居た。
「移動する手間が無くなって助かったよ」
そう言って風船についた水滴をタオルで拭いた。
キュッキュッと嫌な音が鳴ったが、我慢して全身拭いてあげた。
拭き終わり、洗濯機に向かおうと洗面台の方を見て、私は驚いてタオルを落とした。
「た、拓海?」
洗面台の鏡には、風船が浮いているはずの場所に優しい笑顔の拓海が立って私を見ていた。
急いで振り向くと、そこには風船があった。
「え?」
もう一度鏡を見ると、やはり後ろに居るのは拓海だった。
涙が溢れ、鏡に縋り付きながら彼の名前を叫んだ。
涙で滲む視界の中、鏡越しにしか彼を見れないことが悔しかったが、それより会えた事がうれしかった。
「拓海…」
私が何度も言っていると、鏡越しに彼が私の顔の横に自分の顔を近づけてきた。
右を向くと、緑色の風船が目の前に浮いていた。
私はそれを優しく抱きしめ、もう一度彼の名前を呼んだ。
彼の顔見ようと鏡を見ると、彼が何か言いたげに口をパクパクしていた。
「なに?どうしたの」
彼が私に何かを伝えようとしていることが嬉しくて、鏡越しに彼の口元に耳を近づけた。
「ななみ」
微かな小さな声でそう聞こえ、抱きしめている風船に耳を近づけた。
「なぁに?」
私がそう聞くと、彼ははっきりとこう言った。
「おまえもこい」
※
「やっぱり七海、転校じゃなくて自殺らしいよ」
「えっ?マジ?」
「うん、最近よく風船がどうとか、一人でずっとぶつぶつ言ってたもんね、正直私も少し気味が悪くて近寄ってなかったよ、最初はかわいそうだと思ってたんだけどね」
「わかる、風船って多分あれでしょ、拓海君が轢かれたときに、手首に縛ってた風船のことでしょ?遊園地帰りの時の、あの、事故のやつ?」
「そうだね、トラウマってやつなのかな」
「それで、自分を助けようとして死んじゃった拓海君に罪悪感が沸いて、自殺したんじゃない?」
「うん、私もそう思う」
「だろうね、そりゃ、目の前で彼氏がトラックに轢かれてミンチになったらトラウマになるわ」
「そうだね」
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