崩れゆく身体

シチセキ

 2023年、2月14日バレンタイン。

 ××中学校で男子生徒が急死を遂げた。死因は愛情欠乏症によるものと見られる。この死因による死者数は国内で年間1000~1500人と少数ながら、性質上警戒が必要である。専門家によると……



 愛情欠乏症。

 アイケツと略されるそれは、一言で言えば奇病である。

 発症した者は体が黒い砂へ変化し命を落とすというもので、一度発症すれば止めることはできない。全身が完全に砂と化すまで5〜10分ほどかかり、患者はその間痛みや苦しみを訴えない。……むしろ、微笑みを浮かべて死んでいく人が多いらしい。

 発症理由は、愛情の欠乏。誰からも愛されないこと。そして、誰のことも愛さないこと。

 こんな虚しい死に方はない。

 それに、恥ずかしいことだ。

 誰もがそう思っている。


 ――まあでも、私、高橋マナには関係の無い話だ。

 リビングで今朝の新聞を折りたたみながら、心の中でそう呟く。

 当然だ。優しい両親、たくさんの友達、恵まれた容姿。この環境の中に在ってこんなボッチ病にかかる道理がない。

 ……いや、あったとしても、私には当てはまらない。この小さな身体には少し大きすぎるくらいの愛情を、いつだって大事に抱えて歩いてきたのだから。


 今日も、愛おしい一日が始まった。高校1年生である私はいつも通り登校し、自分の席につく。リュックの中のノート類を取り出していると、元気な「おはよー!」という声とともに、背中をポンと叩かれる。

「お、カナ。おはよー」

 私が振り向いて挨拶を返すと、彼女は突然申し訳なさげに私の目を見た。そして、ちらりと机の上に置いた数学のノートを見やる。

「ね、来て早々申し訳ないんだけど……」

「はいはい数学の課題ね。どーぞ」

「さすがマナ様! やっぱり持つべきものはマナだよねー」

「まったく……調子いいんだから」

 このカナというヤツはいつも数学の課題を忘れてくる。多分もとからやるつもりなんてないのだろう。でも結局甘やかしてしまう自分がいる。憎めないやつだ。

 その後四人くらいで適当にだべって、ホームルームが始まり、そして授業が始まる。

 苦手な化学の授業でうっかり寝てしまって先生に咎められたり、英語の先生の質問に見当違いの答えを返したりしていると、いつもみんなが笑う。笑ってくれる。私はいつもそれで少し気が楽になる。

 放課後、部活には入っていないのでさっさと帰ろうと支度をしていると、友達が遊びに誘ってくれる。

 でも、私には家に帰って果たすべき重要任務があるので、謝りつつやっぱり帰る。

 重要任務というのは、我が家の愛猫、マルに餌をやること。両親は共働きで昼はいないので、私が餌をやっているのだ。

 家に帰ってきてすぐ、マルが駆け寄って私の足元にすりすりと体を擦り付ける。

 毎日欠かさず、十分な量の餌をやっているはずなのに、マルは痩せている。元々捨て猫で、痩せ細っていたので、丸々と太ってほしいと思ってわざわざこんな名前をつけてあげたというのに……。

「ちょっと、スカートに毛がつくでしょー」

 なんていう人語を猫に向かって投げかけながら、お留守番のご褒美にちょっと頭を撫でてやると、この上ないくらい嬉しそうにする。

 まったく、こいつも憎めないやつだ。

 餌をやって、マルの咀嚼音を後ろに聞きながら、リビングの机で勉強をする。また誰かさんのために数学の課題をやってやろうと思った。

 晩御飯や風呂を済ませ、ちょっとスマホを見つつ適当な時間に就寝。

 それで、また朝が来て、そしてまた次の朝が来るのだろう。

 ずっとそれを繰り返すのだ。

 きっとそれが一番平和でいい。そんなふうに思う私は、もしかすると今結構幸せなのかもしれない。


 そう思いながら目を閉じた次の日は、ちょっとだけ特別なことが起こった。

 うちのクラスに転校生が来たのだ。

 名前は平野ユウ。女の子。

 親の転勤でこっちに越して来たのだそう。……この高校1年生3学期という微妙なタイミングに。

 彼女は長い黒髪がよく似合う美人で、どことなくオーラがあった。だから、自己紹介を終えた後の休み時間は当然、クラスの女子たちが彼女の周りに集まって盛んに話しかけた。

 しかし、彼女といえば本ばかり読んでいて誰とも目を合わせない。最初のうちは会話が一応成り立っていたからまだ良かったが、途中から面倒になったのか、返事すらしなくなった。

 心の壁がめちゃくちゃ分厚いタイプの子なんだろうな、と机を3つ隔てた隣の席でぼんやり考えていると、話しかけに行っていたカナがこちらに戻って来る。

「ねー、あの子めっちゃ陰キャっぽいんだけど」

 ちょっと愚痴っぽく言う彼女に「うん、そうっぽいね」と苦笑しながら同意する。

「陰キャ」という言い方はあまり良くないと思うが、せっかく話しかけたのに適当にあしらわれたら、誰だって嫌だろう。


 そんなこんなで、何となく避けていたというのもあって、彼女とほぼ関わらないまま1週間が過ぎた。


 ――1週間見ていて思ったが、このユウという子、名前に「優」なんていう立派な字が使われていて、見た目も良いのでかわいそうだ。勉強も運動もてんでダメ。授業で指名されれば、かなり簡単な質問でも答えられず、50メートル走では、同じスタートを切ったはずの文化部女子の遥か後ろを追いかける。

 見た目が良いので中身も素晴らしいだろうという先入観を勝手に持たれて勝手に失望される彼女はかわいそうだ。

 そういう点では、名前と釣り合わないマルと似ているかもしれない。

 ……それにしたって、もうちょっとコミュニケーションとったらどうなのかしら、ユウさん……。と、彼女の方に視線を向けると、目が合った。


 彼女とは、それから後もやたらと目が合った。

 明らかに私を見ている。これは気のせいでも自意識過剰でもない。他のクラスメイトたちには一瞥もくれてやらないのに、何故か私のことだけはじっと見ているのである。

 もう気になって気になってしょうがなくなった私は、次に目が合ったタイミングで本人に直接聞いてみることにした。

 しかし、その日の放課後、玄関に続く廊下を歩いている最中のこと。後ろから視線を感じるので振り返ってみたら彼女がいたのだった。

 少しびっくりしつつも「どうしたの?」と聞いてみる。

 すると、彼女は表情一つ変えずに

「ごめん、制服に猫の毛が付いてたから気になって。猫飼ってるの?」と言う。

 そこで初めて、彼女にまともに喋る能力が備わっていることを知った。

 不意を突かれて一瞬遅れながら「うん、飼ってるよ」と私は答える。

 彼女は猫が好きなようで、うちの飼い猫について色々と質問をしてきた。どんな柄か、名前は何か、どうやって出会ったのか。

 その瞳が、窓から差す夕方の陽光を取り入れてキラキラ輝くのを、どうしてか私は夢中で眺めていた。



 もしかしたら、そのとき魔法にかけられてしまったのかもしれない。

 私は確かに「陰キャ」だとか言われている彼女に、良い印象を抱いていなかった。なのに翌日、登校してきて最初に言葉を交わしたのは彼女だった。

 その日に限らず、その後も毎日、私は彼女と話していた。

 最初は猫の話ばかりだったが、徐々に好きな本や趣味の話などをするようになっていった。彼女は毎日日記をつけているらしい。

 そんな日々が1ヶ月くらい続いた。

 いつの間にか、カナや他の友達とは話さなくなっていた。

 ユウの方が話も合うし、一緒にいて疲れなかった。

 彼女とよく話すようになってからは、以前よりも学校での生活が楽に感じた。



 私はユウが転入してくる前よりも幸せだった。

 幸せなのはいいことだ。

 誰もがそう思うだろうし、実際そうだろう。

 でも、幸せになって、ただ「ああ幸せだなあ」だけで一生を終わらせてもらえることは、ほとんどない。

 幸せと不幸せはセットじゃなきゃいけない。

 きっと世界ってそういうふうにできている。


 なんでこんな不吉な前置きをするのかと言うと、当然私の身に不幸が起こったからだ。


 ――崩れゆく身体。


 ユウが微笑んでいた。

 無駄だとわかっていても、彼女にしがみついた。

 少ししゃがんだ太陽が、窓から私たちを覗き込んでいた。



 景色が春色に染まり出す3月中旬。妙に暑い日だ。

 私はいつも通り目を覚まして、ベッドから体を起こす。寝方が悪かったのだろうか――足が痺れていた。

 かといって動かないわけにもいかないので、びりびりと文句を訴える足を床に置いて立ち上がった。

 静かな家で、ただ一人。父も母も仕事で居ない。

 寝室を出て、洗面所へ。冴えない自分の顔を見ながら歯を磨く。

 それからリビングに行くと、既に読んだ新聞が置かれている。机の上で、静かに捨てられるのを待っている。

 2月の中頃に、父が置いていったものだ。捨てたら怒られる気がして捨てないでいる。……アイケツについて触れられている箇所にだけ、ご丁寧にも赤い傍線が引いてある。

 マルに朝ご飯をやる。マルは食べ終わると、ソファで寛ぐ。私には目もくれないで。

 ご飯をもらったらもう用がないらしいが、それはまあ猫からしたら当然なのかもしれない。

 私も朝食を摂り、もう一度洗面所に戻って寝癖の殲滅に取りかかる。

 今度は、気丈な笑みを浮かべた女の子が鏡に映っていた。

 ――違う。これは私じゃない。

 ああ。足の痺れが全然治らない。

 気丈に笑っている女の子の顔が、一瞬だけ歪んだ。


 教室に着いたら、カナがまた背中を触ってきた。そして私の顔を見て笑った。紙のペラペラという音が聞こえた。

 周囲の人たちも、私の背中を見て笑った。

 私も笑った。みんなが笑ったから、笑った。

 ユウだけが黙って本を読んでいた。

 ――足が痛い。

 不出来な自分を、クラスのみんなと一緒になって嘲笑うのだ。授業中だって、休み時間だって。

 それはとても楽しくて素敵な時間だった。

 自己嫌悪が私を甘く酔わせた。


 ――放課後には、爪先の感覚がなくなっていた。

 今日も友達が遊びに誘ってくれた。それを断った付き合いの悪い私を、友達が悪戯で教室に閉じ込めた。

 私は滑稽な自分をちょっと嘲笑いながら、太陽に焼かれて真っ赤になった空を見つめた。

 春にしてはあまりに鮮烈な夕焼けだった。

 もっとよく見ようと窓へ歩み寄る。

 ――上手く歩けなくてよろける。

 ああ。


 ……ああ、

 本当にきれいだ。

 こんなにきれいなものを、私の汚れた眼が見つめてもいいのだろうか。

 ……いや、ダメらしい。

 夕焼けは、滲んでぼやけてよく見えなくなった。


 不意に背後からガチャン、という音がした。

 別段驚きもせずに振り返ると、ユウが教室のドアを開けて入って来ていた。

「ありがとう」

 そう言って私は、窓に背を向けて彼女に向き合う。

 ――いつの間にか、上履きに砂が入っている。

 ユウはただ黙って私を見つめている。

 あまりに距離が遠いと思って、彼女に一歩ずつ、不器用に歩み寄る。

 さっきは気づかなかったが、目の前に立ってよく見ると、彼女は少し泣いていた。

 少しびっくりしつつも「どうしたの?」と聞いてみると、彼女の顔は一層濃い悲哀の色を表した。

「ごめん、わからない」

 下の目蓋に精一杯留めてあった涙がつーと頬に零れて落ちた。

「どうしたの?」と、私はまた訊ねた。

 ――視界が傾いた。

 彼女が一層悲しそうにした。

 どうして悲しそうなのか、私にはさっぱり検討がつかなかった。

 ……ああ、上履きに砂が入っているのだ。早く取り出したい。気になってしょうがない。

 でも大丈夫。彼女は、どれだけ私の上履きに砂が溜まったって困らないし、何も思わないはずだ。

 ならばこの涙は――きっと夕日がきれいすぎて感動したために流れたのだろう。


「そうでしょ? 私が砂になっても、ユウは悲しくないでしょ?」


 彼女は何も言わなかった。


 きっとそれは肯定だ。

 私はまた少し笑った。

 安堵と自己嫌悪が、無駄に整ったこの満面を彩った。

 彼女と同じくらいだった目線が、徐々に下がっていく。どうやら足元から進行していくらしい。


 ユウは、何も言わなかった。


 次の瞬間、それは肯定ではなかったと知った。

 私は泣いた。

 胸が苦しくてどうしようもなかった。

 下がりつつあった目線が彼女の肩を見て止まる。

 不思議と無機質さを感じさせない柔軟剤の匂いが鼻をくすぐる。

 彼女からそんな匂いがするのを、今初めて知った。


 彼女は、崩れていく私を抱きとめたのだった。

「ごめんね」という震え声が、耳の近くから聞こえた。

 その信じられないくらい優しい声は、紛れもなくユウのものだった。


 もう全部遅いのに。


 ――私は子供に戻ったように小さくなって、泣きじゃくりながら彼女にしがみついていた。




 走馬灯のように思い出す。

 本当に小さかった頃のこと。

 私が生まれる前、父の甥がアイケツで死んだ。

 そんな死に方はありえない。

 恥ずかしい。最悪だ。

 そう思ったらしい父は、愛情深い子になるようにと、私に「愛」と名付けた。そして、友達をつくれ恋人をつくれ今ある幸せを噛み締めろと、隙あらば私に語りかけた。アイケツについて取り上げられている新聞を見つけては、私に見せていた。母も父に賛同していた。

 なのに、父と母はほとんど家にいなかったし、私を褒めたり、一緒に遊んだり、誕生日を祝ったりなんていうことを一切してくれなかった。

 普通じゃない家庭の中に在った私は、普通じゃなくなった。

 友達も徐々に、愛想笑い以外の笑い方を知らない私から離れていき、中学生になる頃には誰も私に話しかけなくなっていた。

 私は焦った。

 このままではアイケツになってしまう。

 何かを愛さなければと思って猫を拾った。自分を愛せればもしくはと思って自分磨きを頑張った。

 だけど、それらの行動も結局あまり意味がなかった。

 マルは私の無愛想な内面を見透かしたのか、全く懐いてくれなかった。私自身も愛のない自分の内面を知っていた。

 だから、鏡にどれだけかわいい顔が映っていても好きにはなれなかった。

「私は幸福で、愛されている」と自分を騙すことは、時間稼ぎにもならなかったらしい。発症してから、それがよくわかった。




 今。

 砂になった今になってようやく、私は愛されていることを知った。

 初めて私を愛してくれた人は、本当に不器用な子だった。どれだけ笑顔で話しかけても、いつも真顔だった。

 なのにどうして、崩れゆく今頃になって、そんなに優しく微笑むのだろう。

「……どうして?」

 指先が黒く溶けていくのを感じながら私は聞く。彼女の涙が、肩に落ちて泥になる。

「まなちゃんがいなくなったら、私もいつか砂になるんだろうなって。……そしたら、また会えるから」

 ――ううん、そんなことはない。

 君は私と違って、名前の通りだから。

 ちゃんと優しくて、人を愛せる子だから。

 私みたいに、空っぽな人間じゃないから。

 ……もしかしたら、マルのことだって愛で肥やして、名前通りのデブ猫にしてやれるかもしれない。……そうだ。

「私が死んだら、マルを……引き取って――」

 最初で最後のわがままは、砂の中に消えてちゃんと言い切れなかった。言いたいことはもっとたくさんあるのに、下顎がないからもう言えない。

 でもきっと伝わった、大丈夫だ。

 砂になるはずだった身体は泥になっていた。涙のせいだろうか。いや。


 ――きっと人間みんな、最初から砂の塊なのだ。それが、一滴二滴と愛情が加わっていくことで丈夫になっていく。

 逆に、愛情を失うと乾いていき、脆くなって崩れるのだ。

 この考えを専門家とやらに教えてみたらどうだろうか。

 いや、知らない方がいいことなのかもしれない。世の中には、もっと知らなくちゃいけないことが他にたくさんあるだろう。

 ――例えば、身近な人からの愛情とか。


 ユウの泣き顔を見上げ、最後に残った両の目でさよならを伝えた。

 血を流して死ねなかった私の代わりに、空がひたすら真っ赤に染まっていた。



「あれから1週間は過ぎただろうか。今朝の新聞であの子のことがこんなふうに取り上げられていた。

『△△高校1年生の高橋愛たかはしまなさんが愛情欠乏症により急死。前例では乾いた砂になって発見されていたこの病だが、本件では湿った泥のような状態になって発見されている……』

 当たり前だ。彼女は他の人とは違う。最後の最後でちゃんと、私を愛してくれたに違いない。

 その、なけなしの愛と、名前の通り丸々と太った彼女の愛猫、まるを抱きしめながら。

 私はきっと生きていける。」


 平野優の日記より

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