第16話ご飯にしますか? お風呂にしますか?
『今から帰ります』
というメッセージにノータイムで既読が付き、その割にはやけに時間がかかったわりには、『わかりました』だけの簡単な返事だけが、僕のスマホに届いた。
夜10時。
駅の構内は帰宅の通行人で賑わっていた。
反対口に通り抜けるためだけに、その人混みを縫うように歩いていた僕は、立ち止まってスマホの画面に注目した。
「琴羽さん、夕飯は食べたのかな? 作り置きとかしてないから、外で買って来て食べたりしてくれてたらいいんだけど」
気になった内容をほとんどそのままスマホに打ち込んで送信する。
今度はわりと早く返事が来た。
『お夕飯、ご用意してあります』
その返事を見た瞬間、僕はサッと血の気が引いた。
「……マジ?」
スマホをポケットに仕舞うと、僕は早足で歩き出した。
今朝の様子からして、琴羽さんが料理なんかしたら、高確率でキッチンが血まみれになる恐れがある。いや、別にキッチンが血まみれになることはどうでもいい。問題は琴羽さんが怪我をしてしまうということだ。
「もう。怪我するってわかっててなんで料理するのかな……!」
無謀な琴羽さんの行動にちょっとだけ苛立ちながら、僕は家路を急いだ。
アパートの鍵を取り出しながら階段を上る。
いきなり部屋の鍵がガチャガチャ鳴り始めたら、きっと中に居る人は驚くだろう。僕だって、部屋の中にいるときに勝手にドアの鍵が開けられたらびびる。警察を呼ぶ準備もするかもしれない。
けれど、玄関のチャイムを鳴らして琴羽さんに帰宅の合図を送る間も惜しい。
一応五分前にメッセージで、今から帰ると伝えてはあるし、勝手に開けても僕だろうとわかってくれるはずだ。と、信じる。
ドアを開けるなり、僕は部屋に飛び込む。
「ただいま!」
「お、おかえりなさいませ……」
玄関で待ち構えていたらしい琴羽さんが、目を丸くしていた。
白のロングティーシャツにカーキ色のロングスカート姿は、よそ行きには見えない。おそらく、父親に届けてもらった荷物の中にあったルームウェアだろう。その上に薄いピンクのエプロンを着けている。
琴羽さんは、軽く拳にした両手を胸の前で合わせて、身構える形で、やや怯えるように驚いていた。
「す、すみません、驚かせてしまって」
「いえ……」
見たところ、エプロンに血痕はついていない。
「怪我はしていませんか?」
琴羽さんは目をぱちぱちと瞬かせて、
「はい?」
と小首を傾げた。
僕は両手を肩まで上げて、掌を琴羽さんに向けて見せた。
「同じこと、やってみてください」
「は、はい」
戸惑いながらも琴羽さんは両方の掌を僕に向けて見せてくれた。
「……うん、傷はない。よかった」
「あの、優一朗さん……これは一体なんでしょう?」
「琴羽さんが夕飯を用意してくれたらしいので、もしかして料理をしたんじゃないかと思いまして」
「……あっ」
はっとして、自分の手のひらを見る琴羽さん。
「今朝みたいに傷だらけになっていないか、確認してくださったのですね」
「はい。まあ、ちょっと失礼かなとも思いましたけど」
琴羽さんが料理をするたびに怪我をすると決めつけているわけだから、疑われるほうとしてはいい気持ちはしないだろう。
「不器用ですみません……」
申し訳なさそうに深々と頭を下げる琴羽さん。
「いえいえ! こっちこそ疑い深くてすみません。でも、夕飯を用意してくれたんですよね?」
「はいっ」
顔を上げると、胸の前で柔らかく手を合わせて微笑む。
「準備できていますよ!」
いそいそと上がり框にスリッパを揃えて、僕に室内に入ることを促す琴羽さん。
しかし、またしてもなにかに気がついたようで、ハッとして僕を見る。
「すみません、すっかり忘れておりました」
「え? なにをですか?」
琴羽さんは体ごと僕のほうに向き直ると、手を揃えて、ほんのりと顔を赤く染めて、そっと呟いた。
「ご飯の前に、お風呂になさいますか?」
「え? あー、いや、せっかく用意してくれているみたいですし、お風呂はあとでもいいですけど」
「そ、そうですか。あの、それともうひとつ……わ、わたしが、おかえりなさいのハグをするという選択肢もありますが……い、いかがですか?」
ハグ? ハグってハグ? つまり抱き合う……ってコト!?
「……なぜですか?」
「い、い、以前読んだ本で、帰宅した旦那様に奥様が、ご飯にしますか? お風呂にしますか? それともわ、わたしにしますか? と問われていたので。やってみようと思った次第、です……!」
琴羽さんは一瞬で顔を真っ赤にさせて、目をぐるぐると回しながら、早口で捲し立てた。
「まあ、夫婦のお約束としてはよくある気もしますけど、一般的ではないような気がしますよ?」
「そうですか。ちなみに、優一朗さんとしては、こういうのはお嫌いですか?」
「そ、そんなことはないですよ。普通に嬉しいです」
「それでしたら、明日もお出迎えのときは、こういう問いかけをしてもかまいませんか?」
琴羽さんのおじいさんたちを欺くためには、新婚夫婦らしさを体験しておく必要がある。だとすれば、この出迎えの言葉も必要なのかもしれない。
「ど、どうぞ!」
「わかりました。では、よろしくお願いします……」
顔を赤くしたまま、ぺこりと頭を下げた。
「では、今から一緒にお夕飯ということで、よろしいですか?」
「え? はい」
僕の返事を聞いて、ふわっと微笑む琴羽さん。
「では、お茶を淹れておきますね」
「わかりました。手洗いなどしたら、リビングに行きます」
「はい。お待ちしております」
パタン、と静かにリビングの扉が閉められる。
「……はあ。びっくりした」
これが噂の「おかえりなさい、あなた。ご飯にする? お風呂にする? それとも、あ、た、し?」か。ベッタベタだなとか思っていたけれど、実際言われると緊張する。
夫婦らしく振る舞う、というルールを完全に忘れていた。
「たぶん、琴羽さんも頑張ってああいうことを言ってくれているんだろうし……それに答えていかないとなぁ」
僕は旦那役としての意識が低い。気を引き締めないと。
手洗いとうがいを済ませて、リビングの扉を開く。
テーブルの上には、黒い漆塗りの寿司桶が二つ並べられていた。サイドには簡単な御新香とお吸い物が置かれていた。
「どうしたんですか、これ?」
「出前をお願いしました」
急須で淹れたお茶を湯呑みに注ぎ、僕の席に置きながら、琴羽さんが答えた。
「用意したって、出前を取ったってことですか」
たしかにこれなら、料理による怪我は回避できるとは思う。けど……
「……霜降のトロにブリ、いくら、ウニ……この白身は……タイ?」
「当たりです! 優一朗さん、よくご存じですね!」
「ま、まあね……」
確認しながら血の気が引いていくのを感じた。
どれもこれも高級魚だ!
「美味しそう……ですね」
「はいっ! お気に入りのお寿司屋さんで、父や母によく連れていってもらっていたんです。ぜひ一度、優一朗さんにも食べていただきたくてっ」
「なるほどー……でもお高いんでしょう?」
「そう……ですね。けっしてお安くはないかと。ですが、優一朗さんからお金はいただきませんから、安心してください」
「いえ、そういうわけには……」
「いいんです」
ピシャリと強い口調で遮られた。
琴羽さんにしては珍しいくらい強い意思を感じた。
自分でも言い方がきつかったと思ったのか、しゅんと肩をすぼめて申し訳なさそうにしながら呟く。
「わ、わたしが優一朗さんに食べてほしくて注文したお寿司ですから……」
「そ、そうですか」
両親とよくいくお寿司屋って言ってたし、今日はサプライズ的な感じだったのかもしれないな。
だとしたら、値段のことを言い続けるのは野望かもしれない。
「ありがとうございます、琴羽さん。いただきます」
安心したように微笑む琴羽さん。
そんな彼女の目の前に座り、付属の高そうな割り箸を手に取る。
「いただきます」
二人で唱和して、まずは熱いお茶をひとくち口に含む。
「……うまぁ」
寿司がではない。お茶が美味い。
お茶なんかどれも同じ。なんなら飲みやすければなんでも美味いと思っていた。そんな、僕の中のお茶の概念を覆す、まったく新しいお茶だった。
「この茶葉って、お寿司に付いていたものとかですか?」
「いいえ。わたしが選んで、淹れたお茶です。お茶を淹れるの、ちょっとだけ得意なんです」
照れくさそうにはにかむ琴羽さん。
「いや、ぜんぜんちょっとじゃないですよ! 天才じゃないですか? お茶を淹れる天才ですよ!」
「ほ、誉めすぎです……」
称賛するたびに申し訳なさそうに小さくなっていくので、ほどほどにしておく。
しかし、この程度では足りないくらい、琴羽さんの淹れてくれたお茶は美味かった。
「そういえば琴羽さん、茶道をやっていると言っていましたもんね! なるほど、納得です」
茶道を嗜んでいる人がみんな天才的にお茶を淹れるのが上手なのかはわからないけど、素人でも違いがわかるくらいにはプロの淹れるお茶は美味いとわかった。
「ふふふ。喜んでいただけて、わたしも嬉しいです」
なんかもうお茶でかなり満たされてしまったけれど、だからといってまさかお寿司を食べないなんてことはない。
僕が寿司を口に含む様子を真剣に見つめる琴羽さん。うん。ちょっと食べにくい。
「あーん……んん……。うん。美味い!」
月並みな感想ではあるが、たしかに美味いと感じた。
魚の味が濃いから、醤油にも負けてない。米も甘いし、ホロホロとほぐれて、量的にもちょうどいい。
ただ、寿司も美味いがお茶がとにかく美味かった。
それと、琴羽さんに支払ってもらっていると思うと、味よりも申し訳ないという気持ちが先に立ってしまい、素直にお寿司を楽しめない。
「お口に合いませんか?」
琴羽さんが不安そうに訪ねる。
「え? 僕、美味しそうに食べてるように見えませんでしたか?」
「……はい。なんとなくお茶のときと反応が違うような気がしまして……あ、もしかして生のお魚は嫌いでしたか?」
「そんなことないですよ。なんでしょう……貧乏舌なんですかね?」
「貧乏舌、ですか?」
「要するに、高級なものとそうでないものの味の差がわからないといいますか。グルメじゃないんですよ、きっと」
自分でも苦しいと思う言い訳に、あはは、と苦笑いするしかない。
「そうですか……」
と、納得いかない様子の琴羽さん。
「でも、わたしの淹れたお茶は、美味しそうに飲んでくださっていたように見えましたが……」
「あのお茶は違いがわかるくらい、本当に美味しかったんです」
「……そうですか。ありがとうございます」
ふわっと、琴羽さんは笑ってくれる。
ただその笑顔は、なんとなく本心からのものではないように見えた。
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