第13話よっ、社長。隣りいいすか?

 結局、一限目の講義には遅れて出席することになった。


 部屋を出る間際に琴羽さんから指輪を渡されたりと、それなりに大きな出来事があったりしたからではあるけれど、それでも間に合わないような時間じゃなかった。

 遅刻の最大の原因は、僕の心の動揺だ。

 指輪の存在感がエグイ。今も僕の左手の薬指で眩い銀色の光を放っている。


「こいつはすごいな……まるで本当に結婚したみたいだ」


 中庭のベンチに座った僕は、自分の左手をじっと見つめる。

 これは本当に僕自身の手か? と疑問に思う。

 一限目から昼休みに至るまで、講義そっちのけでずっと指輪と琴羽さんのことを考えていた。

 今になって急に、偽装結婚が現実味を帯びてきた。なんとなく、今朝までは他人事のように考えていた節がある。


「はあああ……プレッシャーだ」


 食欲が湧かず、食べかけのパンを手の中でもてあそんでいた。


「よっ、社長。隣りいいすか?」


 返事をする前に、すぐ隣に茶髪のイケメンがどっかりと座ってきた。

 僕は見知ったその男を、じろっと睨みつける。


「なんだよ社長って。ひょっとして、僕が今日遅刻したからそう言ってるのか?」

「そう。実際社長出勤だったろ?」

「そんなに遅れてないだろ。せいぜい重役出勤くらいの遅刻だよ」

「どんな違いだよ、それ」


 わはは、と笑ってその茶髪のイケメン――桜木遥斗さくらぎはるとは、ぺりぺりとパンの袋を破る。


「おーい、遥斗ー! こっちで食わねーのー?」


 やや離れた校舎の中に男女の集団が見え、そのうちの一人が遥斗に向かって声をかけている。

 顔を上げた遥斗が声のほうに向きなおる。


「わりー! 今日はこっちで食うわー!」


 遥斗の声は不思議とよく通る。向こうも聞こえたらしく、そのまま去っていった。


「僕を優先する必要なんかないと思うけど?」

「別に優先してるわけじゃねーし」

「じゃあ、なんでいつものメンツじゃなくてこっちで食べてるんだよ?」

「今日はそーゆー気分なだけー」


 そう言ってホットドッグをかじった。咀嚼しながら、遥斗の視線がさっき消えていった集団のほうに向けられた。


「あいつら、全員が全員と知り合いってわけじゃないからさー。めんどいんだよ。仲を取り持つの」

「みんな遥斗繋がり?」

「そう」

「だったらなおさら遥斗がここにいたら不味いんじゃないの?」

「なんとかなるんじゃね? 知らんけど。つうかそのカレーパン食わねーの? ならくれ」

「やだよ」


 取られる前に、僕は手元のカレーパンにかぶりついた。

 隣でズコココッとパックジュースを吸う音がする。


「……あ。てかさ、すずちゃんから聞いたぜ? お前、美人局にあったんだろ? 大丈夫だったか?」

「はあ? いや、別に美人局になんかあってないけど」

「でも昨日女連れてたって聞いたぞ。しかもすげー美人」

「まあ……」

「やっぱ美人局じゃん」

「なんで僕が美人を連れてたら美人局になるんだよ。あの人は昔からの知り合い。有り体にいうと幼馴染み」

「はっ……ゲホッ! ゴホァ!」


 突然遥斗が咳き込んだ。

 なんだ、むせる程信じられない話だったか。


「おいおい、大丈夫か、遥斗?」

「ゲホッ……ああ、わりい……いや、んなことより、お前、いったい何人幼馴染みがいるんだよ?」

「そんなに何人もいないけど?」

「すずちゃんはなんなんだよ? お前、昔からの知り合いだっていってただろ?」

「あいつは高校のときの知り合いだよ。幼馴染みっていうほど古い付き合いじゃないって」

「似たようなもんだろ」

「いや、さすがに小学生の頃からの友達と高校からできた友人を等しく幼馴染で括るのは雑過ぎるだろ」

「なんだその謎のこだわり」


 と、言って遥斗は笑う。


「まあいいや。で、その美人とはどうなったんだよ? 一緒に帰ったって聞いたぞ」

「え? うーんと……」


 パンの袋を置いて、ペットボトルの紅茶の蓋に手を掛けながら、どこまで話すべきか、と思案する。

 僕が返事をする前に、唐突に遥斗に左手を掴まれた。


「おまっ……なんでこんなとこに指輪してんの?」

「……あ」


 僕の左手の薬指には、今朝琴羽さんから渡された指輪が光っていた。

 それに目ざとく目をつけた遥斗。

 お洒落で、とか言って誤魔化すことも一瞬考えたけれど、いつまで続くかわからないこの偽装結婚生活をずっと隠し通すことなんでできるはずがないと思う。

 ここで誤魔化していずれバレたとき、なんであのとき隠したんだよ、とか問い詰められたら、どんなに言い訳をしてもギスギスはすると思うし。

 

 うん。言っとくか。


「実は、結婚したんだ」


 遥斗は一瞬、石像のように固まった。まるで目を開けて寝ているかのようだった。

 たっぷり三秒は石像になっていた遥斗は、空気が漏れるように声を発した。


「……は? え、誰が?」

「僕が」


 と、人差し指で自分自身の胸を差す。


「誰と?」

「昨日一緒にいた女性と」


 遥斗にガッと肩を掴まれた。

 普段のチャラチャラした雰囲気など一切感じさせない、真剣な顔で僕を見る。


「親の知り合いの弁護士紹介してやるから」

「いや、騙されてるとかじゃないからな?」

「詐欺にあってるやつはみんなそう言うんだよ!」

「おい。失礼だろ。その人は僕にとって恩人なんだ。彼女のことを悪く言わないでくれよ。正直、気分悪い」


 珍しく、僕は本気で怒った。

 本気の怒りは遥斗にも通じたらしい。ちょっと考えてから、


「そっか。うん。わりい」


 と謝罪された。

 その直後に、遥斗は頭をひねる。


「いや、にしても急すぎないか?」

「まあ、この結婚の話を持ってきたのは、うちの親父だから……」

「あー、前に遥斗が言ってた破天荒父ちゃんか」

「そう」

「それで結婚しちまう優一郎も十分、破天荒だと思うけどな」

「一緒にすんな」


 僕が結婚を決めるまでにどんな葛藤があったのか知らないくせに。

 けど、その辺りの細かな事情は、遥斗たちにあえて説明するつもりはない。

 というか、この辺りの事情はほとんど琴羽さん側のものだ。僕が簡単に口にしていいものじゃないと思う。


「あー、でもマジかよー。詐欺とか冗談とかじゃなくて、マジで結婚したのかよー」


 綺麗にセットされた髪の毛が乱れるのも構わずに、遥斗は頭を抱えてうつむく。


「何の相談もなしにいきなりってひどくない?」

「遥斗は僕の親かなにかか?」

「親友だと思ってたのに」

「親友だと思ってるよ」


 デヘヘヘ、と遥斗が笑う。

 言っておいて照れるなよ。

 しかし、遥斗はすぐに真顔に戻る。


「いや、騙されねーぞ。だってお前、結婚が済むまで彼女の存在さえ教えてくれなかったじゃん!」

「報告する間もないくらいあっと今の結婚だったんだよ」

「そんなことある?」

「あったんだよ。というか遥斗、なんでそんな機嫌悪いんだよ。普通友達が結婚したって聞いたら喜んだり祝ったりしてくれるものだろ?」


 遥斗が不満そうに口を尖らせる。


「そうしてやりてえのはやまやまだけどよー。こっちにも事情があんだよ」

「事情? なんだよそれ」


 一瞬、遥斗が黙り込む。言うべき言葉を厳選しているふうな、すこし妙な間だった。


「まさか優一朗に先を越されるとは思わなかったわ」

「まさかってなんだよ」


 じろっと遥斗をにらんでから、僕は「フフン」と上から目線で遥斗に微笑む。


「遥斗も早く笹森と結婚してやれよ」

「うっせえバーカ。優一朗のくせにチョーシに乗んなボケッ」

「そこまで言う必要あるか?」


 フンッと不貞腐れて、遥斗は持っていたパックジュースをチュゴゴゴと飲み干す。ぐしゃっとそれを握り潰して立ち上がった。


「おい優一朗、結婚のこと、すずちゃん知ってるのか?」


 遥斗は僕を鋭く目で見下ろしながら問う。

 少し気圧される気持ちで、僕は首を横に振った。


「いや、言ってないけど……」

「なんで?」

「遥斗に言えなかった理由と同じだよ。時間がなかった」

「なるほどな」


 「ま、知ってたら俺に言ってくるだろうし……」というようなことをボソッと呟いていた気がするが、うまく聞き取れなかった。


「優一朗、すずちゃんにちゃんと言っといたほうがいいぞ」

「え? なんで?」

「おまえ、すずちゃんのこと大事じゃないのか?」

「な、なんだよいきなり?」

「いや、答えを言わせるまでもなかったわ。優一朗はすずちゃんのことを命より大事に思ってる。間違いない」


 うん、うん、と頷きながら断定してくる遥斗。

 僕は、なに言ってんだこいつ、という思いで、ジトッと睨む。


「それはさすがに盛りすぎだ。自分の命より大事なわけないよ」

「でもそれなりに大事にはしてるだろ? すずちゃんが俺のこと格好いいって言っただけで、俺を紹介してあげたくらいだし」

「いや、それくらい普通にするだろ。遥斗はいいやつだし。関わってほしくないと思ったら紹介なんかしないよ」


 遥斗は「わははっ」と賑やかに笑う。その顔はやけに赤く見える。


「おまえ、よくそういう恥ずかしいこと平気でいえるなぁ」

「事実だし」


 言いながら、僕もベンチから腰を上げる。そろそろ昼休みが終わる時間だ。次の授業の準備しないと間に合わなくなる。


「優一朗さ、もしすずちゃんが、お前のぜんぜん知らない男と結婚するとか言い出したらどうよ?」

「はあ? そんなの全力で止めるにきまってるだろ。なんなら俺と結婚させてでも、他の男と結婚できなくさせてやる」

「それはきもい」

「きもい言うな」


 そして聞いておいて全力で引くな。


「でもさ、優一朗がすずちゃんにしてることって、そういうことだぞ?」


 ……うん。そう言われると、ちょっと罪悪感あるかも。


「いやでも、笹森が好きなのは遥斗だから。僕はあいつからは、けっこう雑な扱いされてるし。都合のいい兄貴くらいにしか思われてないって」

「ま、すずちゃんの気持ちは本人に聞いてみなきゃわかんねーけど。ちなみに俺は雑に扱われたことなんてないけどな」

「そりゃあ、遥斗はあいつの恋人なんだから、当たり前だろ?」

「それとこれとは話が別なんだよ」


 わかってないなー、とでもいうように、遥斗は大袈裟に肩を竦めてみせる。

 なにか言い返してやろうかと思う間に、遥斗はスッと背中を向けてしまう。


「じゃあ俺、午後の授業始まる前にコーヒー買ってくるわ」

「おー。わかった」

「あ。念押ししとくけど、ちゃんとすずちゃんに報告しろよ。俺からは伝えないからな」

「わかったよ」


 遥斗が去っていくのを見送りつつ、僕はスマホを取り出した。


「……まあ、昨日シフト交代してもらったお礼もしないとだしな」


 笹森に、バイト前に焼肉行くぞ、という旨のメッセージを送って、スマホをしまった。

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