第12話思っているほど大和撫子ではありません
「わたしが洗います」
「いえ、怪我をしているのに水仕事をさせるわけにいきませんよ」
キッチンのシンクの前に立った僕は、琴羽さんの持ってきた食器を受け取り、水に浸した。スポンジに洗剤を垂らして泡立て、洗い物を始める。
僕の隣に立った琴羽さんが、その様子を寂しそうに見つめていた。
「お料理を作ることも、そのお片付けをすることもできず、ただ食べるだけなんて……わたしは妻失格です」
「そんなことないんじゃないですか? 夫って字の主夫って言葉もありますし。家事をするのは女性の仕事なんて考え方はもう古いんじゃないですか?」
「そういっていただけるのは嬉しいです。けど、あまりになにもできなくて凹みます」
しょぼん、としながら、琴羽さんは僕の洗い物の様子を興味深そうに見つめていた。
「優一朗さんて、器用ですよね。指も長くて、細かな作業が得意そうです」
「あー。たしかに、プラモデル作ったりとかは好きですね。うまいかどうかは別として」
「羨ましいです」
「今度一緒にプラモ作ります?」
そういうことじゃありません! というツッコミ待ちだった。
けど、僕の思惑に反して、琴羽さんは目をキラッと輝かせた。
「え? いいんですか!」
「……え? まあ、はい。もしかして、けっこう興味ある感じでした?」
「いえ、その……プラモデルとかは全然わからないのですが、優一朗さんの好きなものを教えていただけるのが嬉しくて」
「そ、そうですか」
自分の好きなものに興味を持ってもらえるのか。それってけっこう嬉しいな。
「ちなみに、琴羽さんの好きなものはなんですか?」
「そうですね……お茶と、お花でしょうか」
「渋いですね」
おばあちゃんみたいだ。
琴羽さんが申し訳なさそうに目を伏せる。
「す、すみません、渋くて……」
「いえ、ぜんぜん! 悪いなんて思ってませんよ。なんか、似合いますね」
「に、にあ……て? それ、褒めてます?」
「誉めてます、褒めてます! 大和撫子って感じでいいですね」
「やっぱり、いいんですね」
一瞬、琴羽さんが痛みに耐えるように目を閉じた。
「どうかしましたか?」
「いえ……やっぱりみなさん、大和撫子が好きなんだなと思いまして」
「そう言われるの、嫌だったりしますか?」
「そんなことないですよ。みなさん誉め言葉としてそう言ってくれますし。ただ、わたしはそんなに器用な人間ではないので、求められることのほとんどはできないんですよね」
「どういうことですか?」
「……いえ。要するに、わたしは皆さんが思っているほど大和撫子ではありませんよ、ということです」
「……はあ」
話しながらのろのろ進めていた洗い物が終わった。
「優一朗さん、今日のご予定は?」
「大学のあとバイトに行きます。今日は一限からなんで十時には行かないといけません」
琴羽さんがチラッと玄関に置かれたデジタル時計を見た。
「もう九時半ですが、間に合います?」
「え!」
時計を凝視する。琴羽さんが言ったとおりだった。
「だ、大丈夫です。ここから大学までは歩いてニ十分なんで」
「近いんですね」
「だからここに部屋を借りたんです」
そうは言ってもこれから身支度をして部屋を出るとなったら案外時間はない。
洗面所で軽く歯を磨く。いつも使っているコップと歯ブラシの隣に、旅行用の歯磨きセットが置いてあった。
「これ、琴羽さんのか」
これはこれで、生々しいお泊りの後って感じがするけど、夫婦って感じじゃないよな。
「琴羽さーん」
「はーい」
リビングからぱたぱたと足音が近づいてくる。琴羽さんがひょこっと洗面所に顔を出す。
「なんですか?」
「歯ブラシ、コップに刺しておいてもいいですか? そのほうが夫婦っぽい気がするので」
「え……! い、いいんですか?」
「そのほうが夫婦っぽいと思いますからね。この状態だとあまりにも他人って感じがしませんか?」
「は、はい……」
琴羽さんの許可を得て、歯ブラシをコップに移す。
一つのコップに歯ブラシが二本。この演出だけでも、ただならぬ関係っぽい感じがする。夫婦越えたな。
いや、というか、これはありなのか?
「……琴羽さん、どう思います?」
「……ドキドキします」
「いや、そういうことじゃなくてですね」
「ち、違うんですか……!」
「今時、同じコップに歯ブラシ差してる夫婦なんているのかと思いまして……僕たちの思う夫婦像って古くないですか?」
「どうでしょう? わかりやすいとは思います。それに、見ていただくのはおじい様なので、古風なほうがいいという場合もあるのではありませんか?」
「ああ。たしかに」
「それに、このほうが仲良しな感じがします」
「そうですね」
これが正解かどうかはわからないけど、このほうがいいという意見には賛成だ。
さて。いよいよ時間がなくなって参りました。
寝室のクローゼットから適当な服を引っ張り出して着替え、荷物の入れ替えをした記憶のない大学に持っていく鞄を肩にかける。
玄関に向かおうとすると、後ろから静々と琴羽さんがついてきた。なぜかちょっとそわそわしている。
「そうだ。琴羽さん、今日の予定は?」
「えっと、お昼頃に父が荷物を届けてくださいます。そのあと、お仕事に向かう予定です」
仕事。琴羽さんがなんの仕事をしているか聞いてないな。気にはなるけど、今は時間がない。また夜にでも聞こう。
「帰りは何時くらいですか?」
「わたしは十九時には帰れるかと」
「なら、琴羽さんのほうが早いですね。鍵を渡しておきます」
両手を重ねる琴羽さん。その上に、キーホルダーの付いた部屋の鍵を乗せた。
鍵を見詰める琴羽さんの目がきらきらと輝いた。
「……わあ。鍵ですね!」
「はい? まあ、鍵ですよ?」
「わたし、おうちの鍵を持ったの初めてです。なんだか新鮮ですね」
「そうですか?」
帰宅したときに誰もいない、いわゆる鍵っ子でもなければ、自宅の鍵を持ち歩く習慣もないのかもしれないな。
「部屋、好きに使っていいんで。くつろいでいてください」
玄関を出ようとした瞬間。
「あ、待ってください」
と呼び止められた。
「はい?」
「すみませんお時間がないのに……あの、これを見ていただきたくて」
琴羽さんはポケットから小さな箱を取り出した。高級感のある、さらさらした布生地に覆われた、どう見ても指輪が出てきそうな形状の箱だ。
「琴羽さんに贈られた箱と似てますね?」
「中身が指輪なのは一緒ですから。ただこれは、昨日父が帰る間際に、わたしにくれたものです。優一朗さんと使うようにと……」
「え! 僕ですか?」
琴羽さんが蓋を開ける。中には銀色のシンプルな指輪が、大小二個納められていた。
「嘘でも結婚しているわけだから、指輪を着けていないのは不自然だ、と」
「いやまあ、たしかにそうですけど……」
いざ自分がつけるとなると尻込みする。
「あの、気が進まないようでしたら、無理にとは言いませんが……」
蓋を閉めようとする琴羽さんに「待って」と声をかける。
「着けましょう。たぶん、言葉で説明したりするより、よっぽど大きな効果を持っていると思います」
「そ、そうですね」
お互い、自分の指に合った大きさの指輪を取り出し、右手の指で摘まむ。そして左手の薬指に狙いを定める。
「せーの、で嵌めましょう」
「え? あ、すみません。今のせーので嵌めてしまいました」
「せっかち!」
いそいそと、僕も左手の薬指に指輪を嵌める。
……これ、すごいぞ。僕の左手だけがイケメンに見える。指輪を嵌めただけなのに、気の持ちようが全然違う。
琴羽さんはといえば。
「ど、どうでしょうか?」
顔を赤くしてうつむく琴羽さん。胸の前で組んだ手の左の薬指に指輪が光っている。
なんか、直視するのも畏れ多いような神々しさを獲得していた。なんたのこ溢れ出る人妻感は……! 見ちゃいけないもののような気がする!
「い、いいと思います……」
「そうですか? ……よかったです」
間が持たない。
「じゃあ、僕先に行きますね!」
「あ、はい。いってらっしゃいませ……!」
上がり框で小さく手を振る琴羽さん。
その薬指には銀色に光る、お揃いの指輪。
狙って左手降って見送ってるでしょ? っていいたくなる。
「い、いってきます」
できたばかりの偽りの奥さんに見送られて、大学へと向かった。
気にしていなかったけれど、意外と時間が押していた。早めに起床したとはいえ、二人分の朝食を作って、ゆっくり食べてなどしていたのだから、時間が経っているのは当然だった。
黒い細身のパンツにティーシャツ、ジャケットという、いつもと代わり映えのしない服装にリュックを背負う。
靴を履いて立ち上がると、後ろに人の気配がした。
「琴羽さん? どうかしました?」
「いえ。ただのお見送りです」
出掛けるだけだけど、わざわざ見送りに来てくれるのって、結構嬉しいもんだな。照れるけど。
「あ、ありがとうございます。あ、そういえば、琴羽さんの今日の予定はどうなってますか?」
「午後からお仕事があるので、出掛けますよ」
「仕事ですか。ちなみになんのお仕事をしてるんですか?」
「母校の中学校で茶道と日本舞踊の先生をさせていただいております。外部講師というのでしょうか?」
「へえ! すごいですね! 他人に教えるのもすごいですし、茶道や日本舞踊がで喜古ともすごいです」
琴羽さんは恐縮した様子で、下腹部辺りに添えた手をもじもじさせてうつむく。
「い、いえ。たまたまご縁がありまして……茶道や日本舞踊は、昔いろんな習い事をさせていただいたなかで、少しだけ、まともにできるようになったお稽古だったので」
「なるほど。それは、何時ごろ帰ってきますか?」
「部活自体が夕方の5時までなので、6時か7時には帰宅できるかと」
「わかりました。そしたら、部屋の鍵を預けておきますね。僕は今日大学のあとにバイトが入っているので、帰りは22時くらいになると思います」
チャラッと、キーホルダーの着いた鍵を取り出して、琴羽さんの手に乗せる。
差し出された鍵を、目をキラキラと輝かせて受け取っていた。
「い、いいんですか……!」
「え、ええ。僕は大学のあとにバイトがあるから、帰りは22時くらいになるし。あとから部屋を出るのは琴羽さんだから、鍵を締めて部屋を出られないでしょ?」
「なるほど。たしかに優一朗さんのおっしゃる通りですね」
「琴羽さん、もしかして今まで鍵持ち歩いたことない?」
「実はそうなんです。実家でもあちらでも、家に誰かしらおりましたから、家に鍵をかけて出掛けるという習慣がありませんでした」
あちら、という言葉の意味が気になったけど、聞いてる時間はなさそうだ。大学まで徒歩圏内とはいえ、そろそろ走らないとヤバいかもしれない。
「それじゃあ、僕は先に出ますね。夕飯は先に済ませてくれて構いませんから。駅に百貨店もスーパーもありますし、帰り道にコンビニもありますから」
申し訳ないけど、今朝の料理スキルを見た感じだと、作らせるわけにはいかない。
「いえ、待ちます」
琴羽さんは首を左右に振って、きっぱりと断った。
「一緒に食べましょう」
「え、でも22時なんてお腹すきますよ?」
「それは優一朗さんも一緒ですよね? 大丈夫です。我慢できます。なんなら、わたしがご飯を作って待っています」
「いえ、それはやめてください」
反射的に断ると、プクーっと頬を膨らませて全力で不満を訴えてくる。
「そ、そんな顔をされても困ります。あの包丁の使い方を見たら誰だって琴羽さんに料理させるわけにはいかないって思いますよ」
「……はい」
不満そうな顔のまま、しょんぼりと納得してくれた。
琴羽さんの凹んだ顔を見えてると、罪悪感からつい、やりたいようにやってもらったほうがいいんじゃないかと思わされてしまう。それはつまり流血沙汰を意味する。琴羽さんの手が血で染まる様子は見たくない。
今のうちに急いで部屋を出るしかない。
「じゃあ、また夜に……!」
「いってらしゃっしゃい、優一朗さん」
僕は思わず足を止めて振り向いた。
上がり框で小さく手を振りながら僕を見送ってくれていた琴羽さんが、不思議そうに首を傾げる。
「ん? どうかしましたか?」
「え? いえ……すみません、なんでもないです」
なんだか胸がドキドキする。
いってらっしゃいって言われただけで、なんだか急に家族って感じがした。これがトキメキってやつか!
そのひと言で、琴羽さんのことを、家族として意識したような気がする。
「い、いってきます」
「はい。いってらっしゃい」
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