第11話「やっぱり苦いですね」

 ――ガシャン。


 と、派手な物音がして、僕は一気に目を覚ました。

 目の前には見慣れたリビングの天井。

 視線を回らせると、キッチンに人の気配があった。

 パタパタ、パタパタ、とスリッパで右往左往する足音と「どうしましょう、どうしましょう……!」とうろたえる小声が聞こえてくる。


「琴羽さん?」


 床に足を付いた瞬間、ガクンと膝が折れて、その場に這いつくばった。


「いだだだだだ! 体痛った……!」


 ソファーで寝ていたせいで変に凝り固まった筋肉がビキビキと痛む。

 とはいえ今は自分の体の痛みより音の原因のほうが気になる。

 這うようにして、キッチンに向かう。


「琴羽さん、 どうかしましたか!」


 琴羽さんはびっくりした様子で、目を丸くして僕を見た。


 寝るときに着ていたワイシャツ姿ではなく、昨日着ていた白いブラウスに深緑のロングスカートを身につけていた。

 その上に紺のエプロンを着けた琴羽さんは、床にしゃがんで包丁を構えていた。


「こ、琴羽さん、落ち着いて! 話せばわかる!」

「ゆ、優一朗さん……えっと……お、おはよう、ございます……」


 暢気に挨拶をしている場合なのか?

 注意深く周囲を確認してみるも、僕たち以外には人影がない。

 その代わり、床には血液と思われる斑点ができている。挙句琴羽さんの左手の指からは少量とはいえ出血しているのが見える。


「だ、大丈夫ですか、琴羽さん!」


 僕は急いでリビングへと引き返し、簡単な救急セットを持って琴羽さんのもとへ戻った。


「す、すみません……ごめんなさい……」

「そんなに謝らなくてもいいですから。それより、なにをしていたんですか?」

「あ、朝御飯を用意しようと思いまして……」

「ああ、それでキッチンで包丁を持っていたんですね」


 その割には、食事の準備をしているような匂いはしていない。まだ作り始めたばかりだったのかな? 机の上に黒焦げになった食パンが二枚置かれているのは気になるけれど。


「琴羽さん、何時に起きたんですか?」

「五時半です」

「五時半!?」


 キッチンに置いてあったデジタル時計の数字は七時半だといっている。

 約二時間、何の成果も得られずに不毛な時間を過ごしていたというのか。


「早起きでしたね。眠くて手元が狂ったとかですか?」

「いいえ……よくやっちゃうんです」


 琴羽さんの指の怪我は、さっきの一ヶ所だけじゃなかった。生傷も多いけど、治りかけの古い傷も多い。

 脱脂綿に消毒液を染み込ませたところで、ふと手を止める。


「手に触れますよ?」


 琴羽さんは形のいい眉を寄せて額に皺をつくり、顔を歪めながら、


「ど、どうぞ」


 と呟いた。

 そっと指先に触れて血を拭う。


「ううっ……くぅ……」


 目をぎゅっと瞑った琴羽さんの口から可愛らしい吐息が漏れた。

 

「琴羽さん、料理できるんですか?」

「……作ることは、します」

「出来映えは?」

「……ま、まともに完成させられたお料理はほとんどありません。味も酷いものです」

「やっぱりですか。まあ、黒焦げの食パンを見ればそうじゃないかとは思いましたけど」


 手当てを終えてゴミを捨てる。

 白い綺麗な指先で、血の滲んだ絆創膏が痛々しく主張している。


「では、琴羽さんはリビングで待っていてください。簡単な朝食でよければ、僕が作りますから」

「え! いえ、わたしが作ります!」

「ダーメーです。琴羽さんは怪我してますし。それだと水仕事は大変ですよね。僕はバイトで食品を扱ってますから、慣れてるんです」


 でも、でも、と渋る琴羽さんをリビングに誘導して、キッチンへ戻る。

 寝起きだったため、身支度を軽く整えて、エプロンを締めてパンを焼き直す。黒焦げのパンは表面を削ぎ落として僕が食べることにした。

 手早くベーコンとスクランブルエッグを焼いてパンに乗せる。マヨネーズとケチャップでソースを作り、レタスと一緒にもう一枚のパンで挟んで、なんちゃってベーコンレタスバーガーのできあがり。

 琴羽さんの分は食べやすいように四分割しておくのも忘れない。


「お待たせしました」


 皿を持ってリビングに戻ると、凹んでいたらしい琴羽さんがパッと顔を上げた。


「もうできたのですか?」

「よくお店で作ってますから」


 お互いの前に置かれた皿を見て、琴羽さんは早速それを入れ換えようとした。


「ちょ……! なにしてるんですか、琴羽さん!」

「焦げてるほうはわたしが食べます! 責任を取らせてください!」

「ダメです! こっちは僕が食べます! 少しでも美味しいほうを食べてもらわないと、作った甲斐がありません!」


 お皿を掴む琴羽さんの手が緩んだ。


「ですが……お料理もできなくて作っていただいて、そのうえ出来映えのいいほうをいただくなんて、申し訳なさすぎます……!」

「誰だって不得意なことはありますよ。それに、僕は琴羽さんに美味しく食べてもらいたくて作ったんです。少しでも美味しいほうを食べてもらいたいじゃないですか」

「……はい」


 手のひらを胸の前で合わせた琴羽さんがスッと目を閉じる。


「いただきます」


 見ていた僕も、琴羽さんに倣う。


「い、いただきます……久しぶりにいただきますって言ったかも」

「そうなんですか?」

「はい。ひとりで食事してると、つい忘れちゃいます」

「では、これからは食事の前にいただきますというのは、習慣にしていきましょうね」

「そうですね」


 琴羽さんは、いい感じに焼き色の着いたらベーコンレタスたまごサンドを両手でつまんで、口許へと運んだ。


 小さく噛り、よく咀嚼して飲み込む。頬を赤くして、目をキラキラと輝かせる。


「……美味しいです」

「それはよかった」


 その顔と反応だけで作った甲斐があるというものだ。

 僕は自分の分のベーコンレタスたまごサンドを噛る。


「……うん、意外と悪くないかも」


 琴羽さんがチラッと上目遣いに僕を見る。


「本当ですか? わたしに気を遣っていませんか?」

「いやいや、使ってないですから! コゲの苦みもいいアクセントになってますし、ガリガリの食感も悪くないです」

「絶対嘘です」

「いや、本当です」

「では少しください」

「……え? これ?」


 僕は自分の皿のサンドを指す。

 琴羽さんは、こくこくと、無言で頷く。


「わたしのパンもひとくち差し上げますから」


 待って、僕の食べかけを渡しても、琴羽さんのひと口食べたあとのサンドをもらっても、間接キスってことにならないか? ならないか。僕の考えすぎか?

 じっと僕を見つめる琴羽さんの目と表情には、意地でも焦げたベーコンレタスたまごサンドの味を確認するぞ、という気概を感じる。

 これが、黒焦げにしたパンを生み出したことに対する罪悪感からなのだとしたら、とても責任感が強い人だ。そして広明さんが言ったとおり、頑固な人でもある。

 とにかく、聞かれたことへの返事はしないといけない。


「……だめです」

「どうしてですか」

「そもそも、同じものを食べてるのに、なんで交換する必要があるんですか? おかしいですよね?」


 うぐっ、と琴羽さんは押し黙った。むっとして、頬をぷくっと膨らませてもいる。


「……琴羽さん、何か企んでますね?」

「心外です。なにも企んでなんかいませんよ」

「なら僕の目を見て言ってくださいよ」


 顔ごとそっぽ向いて言ってるじゃん。

 ならば、と思い、僕は自分の分のサンドを一気に頬張って食べつくした。


「あ! 優一朗さん、そんな食べ方をしたら危ないですよ!」

「ふぁいふぉーふへふ」


 口の中がパンでいっぱいなのと、水分をことごとくもっていかれたせいで、まともにしゃべれない。


「……ちょっふぉまっへくだは……んんぐっ!」


 詰まった! しかも結構危険な詰まり方をしてるぞこれ! 食道の粘膜がガリガリ削られているのがわかる。めちゃくちゃ痛い!

 え? 待って、戻す? 吐き出すにしても場所が……


「優一朗さん、飲んでくださいっ」


 琴羽さんが牛乳の入ったコップを差し出し、それを僕の口に押し当てた。


「んぐぐっ……!?」


 口の中に流れ込んできた牛乳をパンが吸い、収縮した塊が一気に胃に落ちていった。


「……ぶはっ! ……はあ、はあ、だ、だすがっだ……」

「大丈夫ですか、優一朗さん?」

「うん。もう大丈夫です。ありがとうございます」


 テーブル越しに前のめりになっていた琴羽さんがホッと胸を撫で下ろす。

 ふと目が合うと、


「あら?」


 と、首を傾げた。


「ん? どうかしましたか?」


 不思議に思っていると、琴羽さんが僕を見てくすくすと笑った。


「じっとしていてください」

「はい?」


 琴羽さんの顔が迫る。同時に伸ばされた手が、僕の顔にかすかに触れた。


「な、なんんですか?」

「パンくずがついていましたよ」


 琴羽さんの指に米粒より少し大きいくらいのパンの破片が摘ままれていた。もともとゴケでボロボロだったパンを無理に頬張ったせいでバラバラになったみたいだ。


「あ、すみません。ありがとうございま……あ」

「……ぱく」


 と、琴羽さんは持っていたパンくずを口に入れた。

 咀嚼するまでもない大きさの破片だったから、おそらく舌の上で粉々に砕けただろう。

 琴羽さんは苦笑いすると、チロッと小さく舌を出した。


「やっぱり苦いですね」

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