第10話寝る場所を作っておきました
というような会話を、琴羽さんがうちの浴室を使う約一時間前に行われていた。
「……すみません」
すりガラス越しの浴室から琴羽さんの声がする。
「謝らないでください。琴羽さんが謝る必要なんてないじゃないですか」
琴羽さんはたぶん、浴室の中で、頭から爪先までずぶ濡れになったまま、一糸纏わぬ姿で、僕に向けて頭を下げている。
誠意の証、とはまた違うと思うけれど、少しでも自分を辱しめて、本気で謝罪していることを伝えようとしているのかもしれない。
「と、とにかく琴羽さん、話はあとでしましょう。濡れたままだと風邪をひいてしまいます」
「……はい」
再び、静かにシャワーを使う音が聞こえ始めた。
僕は脱衣場を出て、リビングで琴羽さんを待つことにした。
しばらくして、風呂を出た琴羽さんがリビングに入ってきた。
火照ったは普段より赤く血色が良く見える。生乾きの髪がしっとりと濡れて、シャツの肩や袖はうっすら肌色が透けて見えていた。
湯上がりのいい匂いが、リビングに充満する。
「すみません、お待たせいたしました」
「いえ、おかえりなさい、琴羽さん」
僕は視線を悟られないように、手元のお茶のペットボトルに集中する。
ふたり分を紙コップに入れて、片方を差し出す。
「飲みます?」
「はい。いただきます」
両手で紙コップを受け取って、そっと口に含む。白くて細いのどが、こく、こく、と小さく鳴った。
割と飲むな。よっぽどのどが渇いていたみたいだな。
「すみません、お貸しできる服があんまりなくて。一応未使用のシャツなんで」
僕は琴羽さんが着ているワイシャツを見ながら言う。
何を隠そう、実は彼女が今着ているのは僕のワイシャツなのだ。
下着や化粧品、洗面道具など、すぐ必要そうな道具は、琴羽さんのお父さんである広明さんが持ってきてくれていたのだ。
さっきまで着ていた琴羽さんの服はこれから洗濯をするか、コインランドリーで洗うかすることができる。
しかし、なぜかパジャマは持ってきてはいなかった。
その件について広明さんは「ごめん、ごめん。うっかりしてたー」とか言っていたけど、あれはワザと持って来なかったんだと思う。
忘れた理由としては、たぶんだけど、僕に琴羽さんを意識させるためだ。着るものがなければ、高確率で僕の服を貸すことになる。普段自分が着ている服を多少なりとも好意のある異性に着せることで、距離が近くなったように錯覚させる魂胆なのかもしれない。
そんなことでことで距離が近くなったと感じる人間が他にいるかは知らないけれど。少なくとも僕はそう感じた。
一線を越えることは許さないけど、夫婦としては意識して、確実におじいさんたちを欺け、ということか。
彼シャツ姿の琴羽さんを僕に見せつけることで、娘の愛らしさを再確認して、夫婦としての愛を育め、とでも言いたいのだろうか。
だとしたら効果はばつぐんだ。
美人なお姉さんに自分の服を着せているというシチュエーションが健全な男子大学生に刺さらないわけがない。
軽率に僕の癖を歪めるのはやめていただきたい。
これで万が一間違いが起きたりしたら、僕は広明さんに処されるわけでしょ。罠でしかない。
ちなみに、下はショートパンツを履いている。これは広明さんが持ってきた荷物の中に入っていた。これがあって上着を持って来ないのは、もう確信犯だろ。
「男性物の服って初めて着ました。思っていたより大きいですね」
「もともと身長差があるうえに、対格差もありますからね」
袖が余って、いわゆる萌え袖状態になっている。丈も女性が着るには長いものの、ワンピースほどではないため、太もものつけ根を隠すくらいまでしか布がない。つまり角度によってはショートパンツが完全に隠れてしまうため、履いてるのに履いてないみたいに錯覚する現象が起きている。
意識するのはやめよう。広明さんの思うつぼだ。
それはそうと、一応、既婚者の先輩である広明さんに、夫婦らしく見せるためのコツはないかと聞いたところ、
「愛だよ、優一朗くん」
と、なんの参考にもならないアドバイスをもらった。
「そうだ。寝る場所を作っておきましたよ」
「ね、寝る場所ですか?」
「そうです。寝室があるので。こっちです」
琴羽さんを連れて隣の部屋に移動する。
僕の部屋は玄関をはあいると、キッチン、リビングときて、もう一部屋ついた、1LDKの構造だ。
大学生のひとり暮らしにしては贅沢な作りだとよく言われるけど、僕もそう思う。掘り出し物件だった。
隣は本棚とベッドしかないシンプルな部屋だ。
シングルベッドに枕がひとつと、琴羽さんの荷物が置かれている。
「琴羽さんはベッドを使ってください。一応シーツは代えましたし、除菌スプレーもしておきました」
「え? 優一朗さんはどちらで寝るのですか?」
「リビングのソファーを使います」
「いけません。それでは疲れが取れませんよ」
「そう言われましても。まさか一緒のベッドで寝るわけにもいきませんし」
「……もう一組、お布団はないのですか?」
「いや、さすがに持ってないですね。琴羽さん、さっき喫茶店で転寝してましたし、疲れているでしょう? ちゃんと寝たほうがいいですよ」
「……はい。でも、それは優一朗さんも同じです」
「僕なら大丈夫です。しょっちゅうソファーで転寝してますから」
そのあとベッドに移動して寝直して、大体寝過ごすというのがいつもの流れだ。
「とりあえず、僕はシャワー浴びてきちゃいますね。時間も遅くなっってきましたし」
寝室を出ようと身を翻したところ、服の裾を琴羽さんに摘ままれた。
「あ、あの。夫婦なら、同じベッドで寝るのは普通なのではないですか?」
困ったように眉をひそめて、そんな提案をしてくれる。
琴羽さんに下心があるとは思わない。昔はよく同じ部屋で寝ていたし、布団も隣り合わせに敷いていた。その延長のような感覚で同じベッドを使うのはどうかと提案してくれているんだと思う。
あとは多少、夫婦らしさを意識して、というのはあるかもしれない。
「たしかに、夫婦なら一緒のベッドで寝るのは問題ないと思います。けど、やめておきます」
「それは、わたしたちが本当の夫婦ではないからですか?」
「それもありますけど、僕がうっかり琴羽さんに触れてしまわないか心配なので」
昼間の喫茶店で、親父が琴羽さんの肩にうっかり触れたときの彼女の反応を思い出す。
あの反応は普通じゃなかった。男性が苦手だったり、なにかしらトラウマを抱えている可能性もある。
迂闊に触れるようなことはしたくない。
「僕の体のことを気遣ってくれてありがとうございます。明日にでも、新しく布団を買いますよ」
「すみません……これも、わたしのせいでご迷惑をおかけしていますね」
「気にしないでください。じゃあ、今度こそシャワーを浴びにいきますけど、琴羽さんは先に休んで頂いて構いませんからね」
「……はい。ありがとうございます」
おやすみなさい、と挨拶をして、今度こそ寝室を出た。
風呂場を出ると、寝室の電気は消えていた。
長く風呂場にいると余計なことを考えそうだったので、それこそ烏の行水かというくらいの素早さで入浴を済ませて出てきた。
それでも電気が消えているということは、あれから琴羽さんはすぐにベッドに入ったということだろう。
薄く開いていた扉の隙間から、そっと暗い寝室を覗き込む。
リビングから射し込むわずかな明かりで、普段僕が使っているベッドが膨らんでいるのが確認できた。
ソファーに座ると一気に眠気が来て、横になった瞬間、意識が途切れた。
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