第8話「おかえり、優一朗くん、琴葉。待っていたよ」

 時刻は夕方の六時を過ぎていた。

 店内に笹森の姿はない。ちょうど小休憩の時間だから、おそらくスタッフの控え室にいるのだろう。

 ひとこと声をかけて行こうかとも思ったけれど、その分帰りが遅くなる。後で連絡だけ入れておくことにした。

 会計を済ませて店を出ると、日が暮れて、夕闇が辺りを包んでいた。


「一応確認なんですが」

「はい?」

「僕も一緒に帰宅して大丈夫ですか?」

「え? ……はい」


 質問の意図がわかりません、と言った様子で琴羽さんは不思議そうに小首を傾げている。


「ほら、琴羽さん、男性が苦手っぽいので。僕の部屋狭いし、ふたりでいたら息が詰まるかもと思いまして」

「大丈夫だと思いますよ。優一朗さんは昔よくうちにお泊りしていましたし」

「それだって小学生のころですよ?」

「そうですね……けど、一緒にいることが窮屈でしたら、最初から偽装結婚をお願いしたりしていませんよ」

「まあ、たしかに」


 急遽僕の部屋に行くことになったというのに、琴羽さんは案外落ち着いているように見える。僕が変に意識しすぎなのかもしれないけど。


 バイト先の喫茶店から駅方面に向かい、改札をスルーして反対方面に抜ける。商店街を通過して脇道に逸れ、住宅街を少し歩くと、二階建てのアパートが見えるため、そこへ向かう。

 自分の部屋への道を女性とふたりで歩くというのは、なんだか変な感覚だ。


「まっすぐ部屋にきてしまって大丈夫でしたか?」


 見た感じ、琴羽さんの荷物は、右の肩から左の骨盤にかけて斜めに掛けたポーチだけだ。

 そのポーチの紐が胸の谷間に食い込んで形を強調させるのに一役買っていることはさておき、僕の顔くらいの大きさしかないポーチだけでは、一泊するのだって足りなくないか?


「そういえばわたし、お泊りセットをなにも持っていませんでした」


 口調がおっとりしているからあわてているようには見えない。


「一応、歯ブラシやタオルなら未使用のがありますよ。女性ものの服は、さすがに持っていませんが」

「ありがとうございます。必要になったら、近くのコンビニに行ってきます」

「それなら、僕も一緒に居きますよ。最寄りのコンビニが結構遠いので」


 ひとまず部屋に入って落ち着こうと思い、琴羽さんを案内する。

 二階の一番奥の角部屋が僕の部屋だ。

 階段を上ろうとすると、駐輪場の奥のスペースに停めてあった黒い車から人が出てきた。

 暗がりで顔は見えないものの、その人物が背広姿をしていたことに、僕は警戒した。


「おかえり、優一朗くん、琴葉。待っていたよ」


 夕暮れの薄闇の中から、落ち着いた低音の声が聞こえた。

 コツ、コツと固い革靴の踵を鳴らして壮年の男性が顔を見せた。

 身長は僕よりすこし高い。百八十はあるか。堀の深いハリウッド俳優のようなような顔立ちをしている。


「お父さん……!」


 琴羽さんが声を上げた。


「え? 琴羽さんのお父さん?」

「うん。近衛広明です。久しぶりだね、優一朗くん」

「お、お久しぶりです」


 母親のときと違って、琴羽さんは軽い足取りで父親である広明さんの元に寄っていく。


「どうしてここにいるの?」

「さっきの電話、いきなり切られてしまったからね。しかもそのあとは繋がりもしないし。気になって探していたんだよ」


 あのときは琴羽さんのお母さんと遭遇して、スマートフォンのGPS機能で位置を特定されているのではないかと考えて、電源を切ってしまっていた。あれから切りっぱなしだったのか。


「優一朗君の部屋の住所は、慶介から教えてもらったよ。もし結婚の話を引き受けてくれていたら、琴羽と一緒に帰宅するかもしれないと思って、ここで待たせてもらった」

「はあ。そうでしたか」


 広明さんはずっと穏やかに話し続けている。まあ、親父と結託しているわけだから、偽装結婚であることを理解しているからだとは思うけど。

 それでも、娘が異性と一緒に暮らすことになるのを、なんとも思わないのだろうか。


「優一朗くん、これからすこし話せるかな?」

「それは構いませんけど……」

「ありがとう。よかったら君の部屋にお邪魔してもいいかい? 外で長話をしていたら目立って仕方がない」

「ああ、はい」

「ありがとう」


 鍵穴に鍵を挿して施錠を解く。

 この部屋は住み始めてまだ一年と三ヶ月くらいだから、比較的物が少ない。掃除が面倒だから綺麗に使ってもいるし、慌てて片付けなければいけないほど散らかってはいないはずだ。

 それでも、多少緊張しながら扉を開けて、玄関の電気を点けた。


「ど、どうぞ」


 僕が促すと、琴羽さんもちょっぴり緊張した面持ちで頷いた。


「お、お邪魔します」


 ぺこりと頭を下げて、玄関に足を踏み入れた。

 そんな様子を見ていた広明さんが、待ったをかける。


「琴羽、ここはお邪魔しますじゃなくて、ただいまのほうが夫婦らしくきこえるんじゃないかな?」

「え? ……ええ! そ、そうかもしれませんが……」

 

 ちらっと、僕を見上げる琴羽さん。

 ただいま、と言ってもいいですか? と目が訴えていた。

 琴羽さんと、そのお父さんの手前、ということもあり、格好をつけるためにも、僕は余裕があるふうを装って、おおらかに頷きながらいった。


「おかえりなさい、琴羽さん」


 言葉にした瞬間、僕は顔面の筋肉を強引に引き締めた。力を抜いたら照れのせいで変な笑いが込み上げそうだったからだ。

 琴羽さんは胸に手をあてて呼吸を整え、控えめに微笑む。


「た、ただいま、です」


 × × ×


 脱衣場のドアを開けると、嗅ぎ慣れたシャンプーの香りと、シャワーを使う水音があふれ出てきた。

 磨りガラスの扉の向こう側で動いている人影がうっすらと見える。

 僕はその人に向けて、シャワーの音で声が消えないように意識して、呼び掛けた。


「琴羽さん、使ってないバスタオルがあったので、こっちを使ってください!」

「わあっ! は、はひっ!」


 裏返った声と共に、カシャン、となにかが落ちる音がした。

 シャワーの水音が変わったことをふまえると、どうやらシャワーヘッドを落としたらしかった。

 磨りガラスの手前に肌色が迫る。ぼやけていてほとんど形状はわからないけれど、なんとなく見ちゃいけないような気がして顔を背ける。

 顔を背けた先には、琴羽さんが今日着ていた服が、きれいに折りたたまれて置いてあった。

 その服の隙間から、白い紐がはみ出ているのが見える。服の素材とは明らかに違う、光沢のる、やや硬めの高級感を漂わせる生地の紐。

 これはもしや、ブラ――


「ありがとうごさいます、優一朗さん」

「ふぁっ!? え、な、なにがですか?」

「え? バスタオルですが……?」

「あ、ああ! いえ、ぜんぜん!」


 親戚のお姉ちゃんのような存在の女性が裸でシャワーを浴びている途中に脱衣場に入ってきて、長々とそこに居座り、脱がれた服を観察する男がいるらしい。

 なにを隠そう、僕のことだ。

 やっぱり、琴羽さんがシャワーを浴びている間は外に散歩に行くべきだった。大丈夫というからつい、お言葉に甘えて部屋に残ってしまったのがよくなかった。

 浴室のシャワーの音は、いつの間にか止まっていた。


「あ! もしかして、もう上がります? すみません、すぐに退きますから」

「待ってください! あの、違うんです」


 慌ただしく出ていこうとしたところを、琴羽さんの声に呼び止められた。

 磨りガラスの向こう側に、詳細な形さえ定かではない、肌色のシルエットが映っている。

 その肌色のシルエットの身長が、少し縮んだ。


「……すみません、優一朗さん。面倒なことに巻き込んでしまいまして……」


 シルエットの背が縮んだ理由が、謝罪のために頭を下げたからだとわかった。


「い、今その話をしますか?」

「父が帰ってしまってからも、優一朗さんと今後のことについてお話しているときも、こうしてお風呂をお借りしているときも、ずっと考えていました……いつ、謝ろうかと。すみません、このように扉を隔てての謝罪になってしまって……」

 

 僕は、さっき帰っていった琴羽さんのお父さん――広明さんとの会話の内容を思い返した。


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