第7話ふつつかものですが
ローストビーフサンドと飲み物を持って席へと戻る。
「すみません琴羽さん、お待たせしまし……た……」
琴羽さんは椅子に座ったまま、壁にもたれ掛かるようにして目を閉じていた。
唇は薄く開いていて、細い肩がわずかに上下に動いている。
「……寝てる?」
集中して見てみると、かすかに口元から「……すう……すう」と聞こえる。
琴羽さんはずっとうつむき加減だったから気がつかなかったけど、目元にはうっすらとクマらしきものも見えた。
「あまり眠れてないんだな」
僕は静に机のうえに食事を置き、ゆっくりと椅子を引いた。
その瞬間、琴羽さんがぱちっと目を開けた。同時に壁際に寄せていた体を起こす。
「……あ。はあああ……! す、すみまません……! わ、わたし、寝ちゃってました……」
「いえ、ぜんぜん構いませんよ」
髪の毛を手櫛でさっと梳いて、前髪を指先でちょいちょいと直している。
「寝不足ですか?」
「……はい。すこし、考えることが多くて」
「それは、今回の結婚に関係することで、ですか?」
すこし間を置いてから、ゆっくりと頷く。
顔色は紙のように白くて血色がよくない。体調も万全ではないのかも。
「よし。では、まず食べましょう」
琴羽さんの目の前にローストビーフサンドの包みを置いた。
「は……はい?」
「腹が減っては戦はできません。お腹を満たしてから、事情を聞かせてください」
僕は自分の分のローストビーフサンドの包みを開くと、そのまま豪快にかぶりついた。
カリカリもちもちのバンズと肉厚でジューシーなローストビーフを口の中で堪能する。
「んんっ……! いつ食べても美味しいですが、やっぱり出来立てが一番です」
それを見ていた琴羽さんも、きれいに包み紙をほどいて、出たきたローストビーフサンドを小さな口で控えめにかじる。
左手の指先で口元を隠しながら咀嚼するうちに、白い頬に赤みがさしてきた。
「美味しいですね……!」
「でしょ?」
しばらく、ふたりしてもくもくとローストビーフサンドを食べることに集中した。
琴羽さんは口が小さいわりに、ひと口の量が多いのか、ときどきリスのようにほっぺたを膨らませていた。にこにこと幸せそうに緩んだ顔で食べている。
賄でしょっちゅう食べているけれど、いま食べているローストビーフサンドが、今までで一番美味い気がする。
「琴羽さん、紅茶でいいですか?」
こくっ、と細い喉がわずかに動く。
「っんく……は、はい」
口の中のパンを飲み下してから、慌てて返事をしてくれた。
「すみません、聞くタイミングが悪かったですね」
「いえ。わたし、いつもたくさん口に含んじゃうみたいで……食べるのが下手なんです」
そうですね、と言いそうになるのを堪えて、曖昧に笑っておく。
これが、相手が笹森だったら、こっちから「おまえ食べるの下手くそか」とか突っ込むところだけど、そういうことを言ってもいい相手かどうかの判断がまだできない。
冗談として受け止めてくれなかったら、相手を傷つけるだけになっちゃうしなあ。
「のどに詰まらせたりしないように気をつけてくださいね」
フォローを入れつつ、紅茶のコップを渡す。
「ありがとうございます。気をつけます」
再び、ふたりで食事に集中して、最後まで食べきる。
琴羽さんは紙ナプキンで口元を拭い、それを丁寧に折り畳むと、ご馳走さまでした、と小さく言った。
「お腹は満たされましたか?」
「はいっ」
心なしか、さっきよりも元気に、力強く反応してくれたような気がする。
「では、今回の僕たちの結婚について聞いてもいいですか?」
そう問いかけると、琴羽さんの表情は途端に曇ってしまった。
「はい。ただ、その……すみません、どこから話したらいいか、まとめていませんでした」
「僕のほうから質問させてもらう形でもいいですか?」
「あ、はい。お願いします」
琴羽さんの顔には、それなら大丈夫そうだ、という安堵が見えた。
「ありがとうございます。では……琴羽さんのお母さんてあんな人でしたっけ!?」
「え?」
「あんな誘拐するみたいなテンションで襲われるなんて思いませんでしたよ! 僕もついムキになっちゃいましたけど……あんなふうに言われたら逃げるし、絶対に琴羽さんを渡したくないって思いましたよ」
ふわっと、琴羽さんの頬が赤く染まった。
「母が、というよりは、事の発端は、祖父なんです」
「琴羽さんのおじいさんですか?」
「はい。おじい様が、わたしの結婚相手を勝手に決めてしまったんです」
「……なんですかそれ。そんなドラマみたいなこと本当にあるんですか?」
「はい。お相手はおじい様の仕事仲間のお孫さんで、外国の方です」
「国際結婚? マジすか。え? 面識ゼロの人ですか?」
「いえ、会ったことはあります。わたし、つい先日まで外国で暮らしていまして、その人はよく、わたしの家にも来ていました」
「え! 琴羽さん、外国にいたんですか!?」
「はい。二年くらいでしょうか。それもおじい様に言われて半ば強引に……でも、最後に行きますと言ったのはわたしなので、自分の責任ではあるのですが」
それだって、断りにくい空気を作られて、言わされただけかもしれない。おじいさんのことは知らないけど、聡子さんの様子を見たら、それくらいのことはやってそうな感じだし。
「わたしを外国に連れて行った理由は、いずれそちらで結婚させるから、現地に慣れさせたいという意図があったのだと知りました」
「……なんですか、それ」
なんすかそれ、としか言えないわ。自分の娘だから、孫だからって、そんな勝手なことしていいと、本気で思ってるのか?
「じゃあ、琴羽さんはその結婚に納得できなくて、怒って帰国したんですね?」
「……怒ったとかではないと思います。ただ、わたしは彼と結婚しないといけないんだと思ったら、そこに居られなくなって……夢中で日本に逃げてきました」
琴羽さんの声や表情に怒気はまったく感じられない。ただ、泣きそうな顔をうつむけているだけだった。
「母も祖父も、わたしのためにと、結婚の話を進めてくれていました。それなのに逃げてしまいました。……優一朗さんのことも、巻き込んでしまいました。申し訳ございません」
英国風のお洒落空間であるはずのカフェの一角がお通夜みたいな空気になってしまった。
琴羽さんは、ちょっと謝りすぎだと思う。自分のやっていることはすべて間違っているとでも思っているのだろうか。
「どうして僕と結婚するという話になったんですか?」
「日本にきてすぐに、父に相談しました。そうしたら、優一朗さんのお父様から連絡があって、優一朗さんを好きに使っていいから既婚者ってことでやり過ごそう、というお話になりまして」
「ふざけんな親父……!」
僕は天を仰いだ。
ぜんぶあいつの手のひらの上じゃねーか。
「ほんと、よくやってくれたよ、親父」
「すみません。すみません。あの、本当に結婚したわけでもないので、今から断っていただいても……か、かま、かまいま……」
今にも泣きそうな顔で唇を震わせている。
ぜんぜん、かまわない、って顔してませんよ。
「いや、断りませんよ」
「え……?」
「結婚します」
「……ほあ」
一瞬呆けたあと、琴羽さんは両手で顔を覆った。髪の隙間から見える耳は赤く染まっている。
「あ。もちろん、本当に結婚したとか、そんなイタイ勘違いをする気はありませんよ? 安心してください」
「え? あ、はい……?」
「僕と結婚したことにして、おじいさんが決めた結婚の話をなしにする、ってことですよね。わかりました。僕でよければ、協力させてもらいます」
「……ありがとうございます、優一朗さん」
琴羽さんは両手を団扇代わりにして、火照った顔にぱたぱたと風を送っている。それでは物足りなかったらしく、用意してあったお冷に口をつけた。
「琴羽さん、今夜の予定はどうします?」
「んんっ……! えほっ、けほっ……!」
突然、琴羽さんが咽た。
お冷を吹き出すようなことはなかったけれど、手で口元を押さえて軽く咳き込んでいる。
「だ、大丈夫ですか?」
「すみません……だいじょうぶ、です……」
ハンカチを口に当てて、咳き込んだときに出たであろう涙で目を濡らした琴羽さんが、おずおずと僕を見る。
「その、今夜の予定は、というと……?」
「ふつうに家に帰るのかなと思いまして」
「……いいえ。家には帰れません」
「あ、やっぱりそうですよね。聡子さんもいるでしょうし。というか、帰るつもりでしたら、聡子さんは家で琴羽さんの帰りを待っていればいいだけですもんね」
「はい。それに、いつ祖父が帰国してくるかわかりません。今この瞬間、日本にいてもおかしくないと思います」
「となると、外でホテルをとるとかですか?」
「はい。ただ、その場合、もしなにかの要因で母や祖父の関係者に見つかってしまった場合、結婚の話は嘘だったのか、と思われてしまうかもしれません」
「なるほど。ということは、僕たちは一緒にいたほうがいい、ということですね」
「……はい」
え? これって僕の部屋に誘っていいの? そういう流れ? 大丈夫? もし断られたり引かれたりしたら、偽装結婚の旦那役を続けられる自信ないんだけど!
「じゃあ……えっと……どうしましょう。映画のレイトショーとか行きます? それか24時間のファミレスとか?」
「そ、そうですね。ですが、そういったところは寝られませんし、落ち着けませんよね。なので、その……」
琴羽さんは唇をもにょもにょ動かしたり、ちらちらと僕に視線を向けたり逸らしたりしている。数秒そうしたあと、深呼吸をし、震える唇をそっと開いた。
「差し支えなければ……優一朗さんのお部屋に……」
そこから先は店内のBGMに消されて聞き取れなかった。それくらい小さな声で絞り出していた。
僕は大きなため息と一緒に頭を抱えた。
「……はあああ。すみません。僕が言うべきでした」
「え?」
「僕の部屋を使う、というのはありですか? 偽装結婚の拠点として使ってもらうのはどうでしょう」
琴羽さんは両手を膝の上において、すっと姿勢を正した。頬の火照りは消え、唇の震えもなくなり、きゅっと引き締まっている。
「ありがとうございます、優一朗さん。ふつつかものですが、お世話になります」
こうして、僕たちの偽りの結婚が成立した。
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