第5話本当に琴羽と結婚してるの?

「ねえ、優一朗君」


 聡子さんに呼ばれて、僕は思わず体を震わせた。


「な、なんですか?」

「本当に琴羽と結婚してるの?」

「し、してます、よ……」

「ふうん」


 全然納得していない、といった感じで聡子さんが微笑む。

 この人には、本当は結婚してないってバレているかもしれない。


「じゃあ、離婚してほしい、っていったら?」

「……お断りします」

「タダで、なんて言わないけど? いくらで手を打ってくれるかしら?」


 聡子さんが上にした手のひらを後ろに控えていた男性に向けて差し出す。すぐにその手のひらに財布が置かれた。


 言い値で払ってくれるつもりなのか! こんなの漫画やアニメの中でしか見たことない。

 まあでも、料金を提示するつもりは微塵もない。そんなの、その金額で琴羽さんを売ったってことになるじゃないか。


「その手には乗りませんよ。お金の問題じゃありません」

「あら、意外と真面目なのね」


 意外と、とは心外だ。どう見たって僕は真面目が取り柄の普通の青年だ。


「それより、聡子さんさっき、見つけたって言っていましたけど、琴羽さんを探していたんですか?」

「ええ、そうなのよ」 


 おかしい。だとしたら、どうして聡子さんは、今このタイミングで駅の改札にいるんだ?

 ここに来ることは、さっき琴羽さんと話して決めたことだ。駅に来ることを予想してあらかじめ見張っているか、こっちの行動を把握していないとそんなことできないはずだ。あとをつけられたのか、それとも…… 


 不安そうに胸の前で両手を重ねる琴羽さん。その手には愛用のピンクのスマートフォンが握られている。


「……そうかGPS! 琴羽さん、スマホの電源を切ってください!」

「え? あ、はい……」


 わけもわからず、琴羽さんはあわてて電源ボタンを長押しして、スマートフォンをシャットダウンさせた。


「いくら琴羽さんが心配だからって、GPSはやりすぎじゃないですか?」

「そお? 今時ふつうよ?」


 じりっと、聡子さんが近づく。


「とにかくいらっしゃい、琴羽。一度おじいちゃんに会ってちょうだい。ちょうど帰国してくるから」


 ゆっくりと着実に近づく聡子さん。

 それにともなって、少しずつ僕から離れていく琴羽さん。

 追い詰められていく琴羽さんを見ていられなくなって、僕は親子の間を遮るように立ちはだかった。


「すみません。僕たちこれからちょっと用事があるんです。お話はまた今度にしてください」


 かなり強引ではあるけど、一方的に切り上げて、琴葉さんに向かって、改札に行きましょうと声をかける。


「待ちなさい」


 聡子さんに力強く呼び止められて、反射的に歩くのをやめてしまった。


「そんな話が通じる状況じゃないことくらい、わかるでしょう?」


 怒鳴っているわけでもないのに、聡子さんの声には不思議と逆らえない力があった。

 僕たちが間違ったことをしているのかもしれないという後ろめたさも、すこしは影響していたかもしれない。


 聡子さんはわずかに首を回して、背後に控えていた背広の男性を見た。


志野原しのはら、お願い」


 その言葉を合図に、背広の男性が動く。

 二十代後半くらいの、体格のいい長身の男性。バレーボールプレイヤーにいそうな爽やかな印象を受ける。

 その挙動から、琴羽さんを捕まえるつもりだということは、はっきりと予想がついた。

 僕は肩越しに、背中側にいる琴羽さん顔を向ける。


「走ってください」

「え?」

「早く! 改札口へ行ってください!」


 ブラウスの細い肩を一瞬だけ掴んで琴羽さんの体を改札方面に向けて、その背中を軽く押し出した。

 親父に対して起こした拒絶反応が僕に対しても起こるかも、と気がかりだったけれど、今この瞬間は僕に触れられることよりも、指示の内容のほうに意識が向いていたようだ。

 ゆっくりと、琴羽さんが走り出す。


「ちょ、待ちなさい……!」


 志野原と呼ばれた男性も、琴羽さんを追って駆け出す。

 僕を追い越して琴羽さんを追いかけようとする志野原さんに足を掛けた。

 よろけた志野原さんが床に転がる。人が密集する駅の改札付近でのできごとのせいもあって、小さな悲鳴が各所で聞こえた。


 這いつくばっている志野原さんを追い越して、僕自身も改札口に向かって走る。

 琴羽さんの背中にはすぐに追いついた。

 後ろを振り向く余裕はない。

 これでもし、誰も追ってきていなかったりしたら、僕たちのしていることはなかなかに滑稽なことだと思う。ただ、そんな希望的観測は、今は捨てるべきだ。


「改札を通って電車に乗ってしまいましょう。そうすればさすがに追ってこられないはずです」

「え? ですが、わたし切符がないと……」


 僕は自分のパスケースを改札口のタッチパネルに押し付ける。中のICカードに反応して、自動改札のゲートが開く。そこに琴羽さんを先に通した。

 改札の向こう側にいる琴羽さんに向けて、今使ったパスケースを優しく放り投げる。彼女はオタオタしながらそれを受け取った。


「先に行っててください!」


 そう声をかけた瞬間、僕は乱暴に背中を捕まれた。


「どきなさい!」

「嫌です!」


 強引に僕を改札口から引き剥がそうとする志野原さんに抵抗する。改札口のひとつを塞ぐ形になってしまった。

 志野原さんは僕に対して殴ったりはせず、ただ改札を通るために道をこじ開けようとしていた。

 しかしすぐに通り抜けることを諦めて、困惑した口調で言った。


「他の通行人の迷惑になるだろう。いいから離れなさい」


 そう言われて、僕は少し冷静になった。周囲の冷ややかな視線から顔を背けて、道を開ける。

 琴羽さんの姿はどこにも見当たらない。

 ちょうど電車が来ていたとしたら、琴羽さんが乗り込むくらいの時間は稼げたはずだ。ホームで待っていたとしても、一度見失っている以上、簡単には発見できないと思う。

 志野原さんに肩を捕まれながら、改札口から離れた。


「無茶なことするわね。自分の定期を人に貸すのって犯罪じゃないの? よく知らないけど」


 ゆっくりと歩いてきた聡子さんが呆れたように言う。


「定期券としては使っていませんよ。ただのICカードですから、平気じゃないですか?」

「優一朗くん、あの子がどこに向かったのか知ってるんでしょう? 教えてくれないかしら?」

「いいですよ。でも、僕が本当のことを話しているとは限りませんよね?」


 僕の返事を聞いて、聡子さんは嬉しそうに微笑んだ。


「あの泣き虫だった優一朗君が、ずいぶん逞しく成長したのね」

「え? あ、ありがとうございます?」

「でもね、これは家族の問題なの。悪いけど、優一朗くんにはあまり首を突っ込んでほしくないわね」

「それなら僕にも関係あるはずですよ。僕と琴羽さんは夫婦なんですから」


 聡子さんは口元を笑みの形に歪めながら、目をスッと細めて僕を見た。


「優一朗くん、あの子とちゃんとお話できた?」

「え? ええ、まあ……」


 本当はまともな会話はあまりできていない。事情も、親父が言っていたこと以外はよくわからないし。


「そう。ならいいわ」


 明らかに信じていない反応だった。いっそのこと、嘘だと見破ってくれたほうがまだ気がらくだったのに。


「志野原、離してあげて」


 聡子さんの指示を受けて、志野原さんはあっさりと僕を解放してくれた。


「今日のところは諦めて帰ることにするわ」

「え? 今日のところはって……まだ続ける気ですか?」

「琴羽とちゃんと話して事情を聞いたのなら、そう簡単に終わる話じゃないことくらいわかると思うけど?」

「き、今日みたいに追いかけられるのは嫌ですから! 琴羽さんが怪我でもしたらどうするんですか?」

「こっちにも事情があるの」


 突き放すように言うと、琴羽さんのお母さんは僕に背中を向けた。


「またね、優一朗くん」


 歩き始めると、志野原さんもその後に続いた。

 二人の後ろ姿は、駅の雑踏のなかに瞬く間に消えていった。

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