第3話ピンチヒッター

『やだ!』


 喫茶店の外。

 耳に当てたスマートフォンから吐き出された大声と強い拒否の言葉に、僕は顔をしかめた。


「頼むよ笹森ささもり! どうしても外せない急用なんだ」

『あたしだってこのあと彼氏と会う予定あるし!』


 怒りを含んだ甲高い声は、よく知る少女が電話口の向こうで唇を尖らせて不満そうにしている様子を容易に連想させた。

 笹森の彼氏、桜木遥斗さくらぎはるとは、僕が唯一、積極的に連絡を取り合う男友達だ。

 一見、軽薄そうに見えるけれど、情に厚く人柄もいい。笹森には申し訳ないけれど、デートをドタキャンされたくらいで怒ったりはしないだろう。


「遥斗には僕からも事情を説明しておくから、今日だけは頼むよ。なんでも好きなもの奢ってやるから!」

『え! マジ? じゃあ焼き肉!』

「くっ……また微妙に高いものを……!」

『嫌なら他を当たってよー?』

「わかった、わかった! 連れてってやる」

『やったー! おっ肉、おっ肉ぅー!』

「ただしランチの食べ放題だぞ! 松竹梅なら、竹ランクまでだ。いいな?」

『仕方ないなぁ。それで手を打とう』


 仕方ないと、言いつつも、声の感じは上機嫌だ。これならバックレたりせずにちゃんとピンチヒッターを努めてくれるだろう。


「じゃあ、今日頼むな」

『はいはーい』


 ピロリン、と電子音を残して通話は終了した。


 梅雨が明けたとはいえ、東京郊外の夏は、じめじめと蒸し暑かった。僕はシャツの胸元をパタパタとあおいで、風を送って涼をとる。


「はあ。バイト休んで焼き肉奢ってだと、普通に休むよりかなり損害が大きくなるなあ」


 とはいえ、無償でバイトの代打を頼むのは心苦しいから、明確な謝礼をしてやれると思うと、まだ気が楽だ。


「忘れないうちに遥斗にも連絡しておかないとな」


 簡潔にメッセージを作成して送信したところで、僕は窓ガラス越しに喫茶店の中に目を向けた。


「え?」


 先程まで僕の座っていた場所に、知らない男が腰かけていた。隣の席にも一人、男が座っていて、琴羽さんを取り囲んでいる。

 うつむいた琴羽さんの表情は見えないけれど、身を縮めて壁際に体を寄せていた。


「うわー、マジか。めっちゃ声かけられてるじゃん……!」


 急いでスマートフォンをしまって、店の扉を開けた。


 琴羽さんの隣に座った黒髪の無口な男が逃げ道を塞ぎ、僕の居た席に座った金髪の男が親しげに声をかけていた。


「近くで知り合いがバーやっててさー。めちゃくちゃ雰囲気いいんだよ。一緒にいこーよ。ご飯だけでもいいからさ!」


 琴羽さんは詰め寄る男から顔をそらしながら、しきりに首を横に振る。

 大きな首の振りにあわせて、長い黒髪がふわりと揺れた。


「うわ。今めっちゃいい匂いした! 俺シャンプーの匂い好きなんだよね。もっかいやって」


 金髪男の言葉に、琴羽さんは首を振ることもできずに縮こまっている。


「なに、ダメ? じゃあ髪触らして」


 男が琴羽さんの髪の毛に触れようと手を伸ばす。

 その手を避けようとするも、琴羽さんは壁に体を押し付けているせいで、それ以上は下がることもできない。

 穏便にこの事態を回避するにはどう声をかけようかと悩んでいたけれど、そんな考えは一瞬にして消えた。


「あ……あのー!」


 加減を忘れた僕のクソデカ声が店内に響いた。

 その瞬間、店内の注目を一身に浴びた気がする。周囲に気を配る余裕はないから、「やべーやつがいる」と思われているという雰囲気しか感じ取れないけど。


 僕の声に、琴羽さんに絡んでいた男たちも注目した。

 手を止めた金髪の男が大袈裟に驚いたようなリアクションをして、体ごとこっちに振り向く。


「……いや、声でかすぎでしょ。びびるわー」


 そう言って僕を見上げて、へらへらと笑った。

 黒髪の男が、のそりと立ち上がる。


「なに?」


 背丈は同じくらいなのに、態度がでかいからか、大きく威圧的に見えた。

 僕は指先の震えを悟られないように、慎重に気持ちと表情をコントロールする。


「なにかご用ですか?」

「ああ。もしかして、この子の彼氏?」


 親指で琴羽さんを指しつつ、金髪の男が言った。

 黒髪の男には、なにか文句あるなら問答無用で叩き潰すぞ、って感じがあるけど、金髪の人はまだ話が通じそうだ。なんとか納得させて、さっさと立ち去ってもらおう。


「いえ、彼氏ではないんすが、なんというかその、家族に近いなにかといいますか……」

「は? どゆこと? あー、ひょっとして弟君か! いい、いい。弟君も一緒に飲みに行こうよ。お姉ちゃんも一緒に」


 フレンドリーな陽キャだった。

 明らかに僕はおまけでしかないだろうし、彼氏や弟がいても関係ないって感じだ。

 この積極さは怖いな。話をしてもしなくても相手の都合のいいように展開を持っていかれてしまう。曖昧じゃダメだ。確実に諦める断り方をしないと。


「違います。僕は弟でもありません」

「え? なんだそうなの? ただの男友達とか? だったらぜんぜん問題ないじゃん」

「僕は彼女の……だ、旦那です」


 答えた瞬間、怯えて身を縮めていた琴羽さんの肩がぴくっと動いた。

 金髪の男が目を丸くする。


「旦那? え、結婚してるの? マジ?」

「マジです」


 嘘だけど。

 だけど、さっきまで親父から、琴羽さんと結婚しろって迫られたし、琴羽さんもなんでかわからないけど僕と結婚するつもりでここに来てたりするから、あながち嘘とも言い切れない……と思いたい。


「え? ホントに結婚してんの?」


 金髪男はなぜか琴羽さんのほうを向いて確認する。

 疑いたくなる気持ちはわかるけど、ちょっと腹が立つなあ。


 さて、琴羽さんはどんな反応をするだろう。たぶん、僕に話を合わせて肯定してくれると思うけど……ここでもし、結婚してません、とか言われたら、僕は恥ずかしいやつを通り越して妄想全開のイタイやつになってしまう。ナンパ男たちが悪じゃなくて、真の敵は僕でした、みたいになっちゃうじゃん。

 ヤバイ、緊張してきた。


 壁に頭を押し付けて顔をそらしている琴羽さんは、長い黒髪が顔を隠しているせいでいまいち表情が見えない。

 注意深く反応を伺っていた僕は、小さな頭がわずかに上下に動くのを見た。


「……はい。結婚、してます……」


 あぶねー! 真のラスボスルートは回避した!


「うお、マジか。すげーな。え? あんたいくつ?」


 すっかり僕たちのことを夫婦だと思い込んだ金髪男は、親し気にこっちに詰め寄ってくる。

 くっ、これだからパリピは……! 旦那がいるとわかったんだからさっさと諦めてどっかいけばいいのに。


「じ、十九ですけど……」

「十代で結婚決めるとかすげーな! いやまあ、こんな美人でスタイルいい嫁ならありっちゃありだけど! 俺ムリだわ。遊びてーし」

「俺も」


 黒髪の男も同意した。それを機に、金髪の男が席を立つ。


「いやあ、ちょっと感心したわ。おしあわせにな!」


 ばんっ、と僕の背中を叩いて、二人組の男性たちは去っていった。

 最後のほうはあっさりと立ち去ってくれたな。なんだかそれだけで、ちょっといい人たちだったんじゃないかと思ってしまう。

 金髪の男と入れ替わるように、僕は自分の席に戻る。


「大丈夫ですか、琴羽さん?」


 僕を見上げた琴羽さんの目は、わずかではあるけれど、涙で潤んでいた。

 前言撤回。結局琴羽さんをこれほどまでに怯えさせたのだから、いい人たちでもなんでもなかった。僕がチョロすぎただけだったわ。


「すみません、僕が席を外したばっかりに怖い思いをさせてしまって……」


 ふるふると無言で首を横に振る。僕には非がないと言ってくれているのだろう。

 一応、騒ぎ自体は丸く収まりはしたけれど、さっきから度々注目を集めていて、どうにもいたたまれない。店に迷惑をかけたことは事実だし、長居はよくないな。


「琴羽さん、場所を変えて話しませんか?」


 僕の提案に対して、琴羽さんは小さく、それでもはっきりと頷いた。

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