第2話あとは若い二人で

 知り合いとはいえ、若い女性の肩に軽率に触れたわけだから、親父が悪いと思う。

 だけど、ちょっと反応が過剰過ぎやしないか?

 とにかく、この凍った空気をなんとかしないと。


「親父、セクハラだぞ」

「え! そうなのか? いくら払えば許してくれる?」

「やめとけ親父。罪に罪を重ねるな……けど、親父が素直に謝ってるところ、はじめて見たな」

「なぁに言ってんだ。俺はいつでも素直に謝ってるだろ?」


 その言葉を聞いて、僕は思わず鼻で笑ってしまった。


「ふん。それができてれば、母さんとも離婚せずに済んだんじゃないの?」

「関係ねえよ。なんだ優一朗、嫌味かそれは?」

「そうだよ」


 さらに空気が死んだ。

 親父とはたまに顔を合わせるといつもこんな感じだ。僕はいいとしても、巻き込まれ、付き合わされる琴羽さんはたまったもんじゃないだろう。

 僕は目の前のアイスコーヒーがほとんど空になるまで中身を減らした。


「……まあ、親父がなにを企んでいるのか知らないけど、とにかく僕は結婚なんてする気はないから」


 そう言い置いて、席を立とうと腰を浮かせた。


「この結婚が琴羽ちゃんの頼みだとしてもか?」

「え、そうなの?」


 僕は思わず中腰姿勢のままで聞き返した。

 親父は真剣に言っているように見える。ただこの人の場合、嘘だとしても似たような表情で言うときがあるからなぁ。

 ならばと思い、琴羽さんに目を向ける。


「本当ですか、 琴羽さん?」


 細い肩をすぼめてうつむき加減だった琴羽さんは、わずかに頭を下げて、ちいさく頷いて見せた。


 僕は目を閉じて深く息を吸った。

 これが、たまに訪れる親父の迷惑な思いつきだったなら、話は簡単だった。断ればいいだけなのだから。けれど、どういうわけか琴羽さんが僕との結婚を望んでいるとなれば、話は別だ。

 浮かせていた腰を再び下ろした。。


「あの、琴羽さんはどんな事情で僕と……その……け、けっきょんしたいと思ったんですか?」


 言葉にすると思った以上に恥ずかしいぞ! 結婚なんて簡単な単語さえ噛むくらいには、口に出すのも緊張する!


「ぶふっ! けっきょん?」

「笑うな親父!」

「……ふふっ」


 おでこがテーブルにくっつくくらい頭を下げた琴羽さんが、こらえきれずに噴き出していた。

 しばらく待っても、琴羽さんから僕の質問に対する答えは返ってこない。

 僕が盛大に噛んだことで、質問の内容が頭に入っていない可能性がある。あるいは、僕が質問を失敗したことを利用して、答をはぐらかそうとしているか、だ。

 

「なあ、親父はなにか知ってるんだろ?」

「なにがだ?」

「琴羽さんが僕と結婚する理由だよ」

「そりゃあ知ってるさ。けど、それは本人から聞くのが筋だろう」

「いや、本人が言いにくいことかもしれないし。親父が琴羽さんを連れてきたんだし、説明する義務はあるだろ」

「そうだな。お前のいうことは正しいよ……クソマジメが」

「おい。今クソマジメとか言わなかったか?」


 僕の言葉を無視して、親父は腕組みをして、ううむと唸る。


「話せば長くなるぞ……」

「いいよ。覚悟の上だ」


 そうは言いつつも、僕はポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認した。時刻は間もなく午後二時になろうとしていた。


「あ、ちょっと待った。僕、この後バイトを入れてたんだ。休みにするから、代打を頼んでくる」


 席を立とうとすると、


「その必要はないぞ」


 と呼ばれた。


「なんで?」

「俺に時間がない。もう仕事にいかなきゃならん」


 とんとんと安物の腕時計の文字盤を叩く。


「はあ!?」


 すぐに親父はガタガタとあわただしく席を立つ。


「ここの代金は払っておいてやる。あとは若い二人でってやつだ。な?」

「な。じゃないだろ! ざっけんな! 僕がバイトを休むんだから親父も仕事休んでちゃんと説明しろ!」

「バイトと社員を一緒にするな! 責任の重みが違うんだよ。それに俺が残っていたところで、できることはなにもない」

「説明とかできるだろ」

「俺の説明で、お前ホントに納得できるのか?」

「む……」


 たしかに、同じ内容を説明されたとしても、親父から聞かされたものと、琴羽さんから聞かされたものとでは、僕の中で納得できる基準が変わってくる気がする。

 親父からの説明なら九割断るけど、琴羽さんからの説明なら、余程のことがない限り、可能な限り引き受ける気でいる。


「俺からの以来は引き受けないって、顔に書いてあるぞ」


 親父に指摘されて、僕はきゅっと口をすぼめて表情を濁した。


「卑怯だぞ」

「最高の誉め言葉だ」

「クソ腹立つ!」

「わはは。まあなんとしてもお前にこの結婚を引き受けさせたいんだよ。助けると思って納得してくれ」

「助けるって、誰を?」

「もちろん琴羽ちゃんさ。恩人なんだろ」


 七年前。

 僕が小学五年生のときに、うちの両親は離婚している。離婚までの一年間、昼夜を問わ殺伐としてる両親の間に挟まれて、僕は精神的にも肉体的にも、かなり消耗していた。

 さすがにまずいと思った親父が、親友の家に僕を預けた。それが琴羽さんのいる、近衛家だったのだ。

 両親の離婚が成立するまでとその後一年の、約二年間、僕が心身とも健康に過ごせたのは、琴羽さんが居てくれたからだ。

 琴羽さんの力になれるのなら、物理的に不可能なことでない限り、可能な限りなんでもしたい。


「……うん」

「なら、あとは頼んだぞ」


 あとを頼まれた僕は、会計を済ませて店を出て行く親父の背中を見送った。


 で、若い二人で残されたわけだが、そこからは、気まずい気まずい沈黙タイムが始まった。

 親父が同席していたときにはまだ気楽に話しかけられていたのに、今はもうそれさえできなくなっている。


 琴羽さんは時々、思い出したように紅茶のカップを口に運んだ。

 会話がないから、間を埋めるためにもお互いひたすら飲むしかないわけだけど。

 聞きたいことはいくらでもあるけれど、いきなりそれを聞くのはなんだか悪い気がする。ここは小粋な世間話で場を温めつつ、徐々に切り込んでいきたいところではあるが、理想と現実は違いすぎる。

 アイスコーヒーが完全になくなってお冷に手を付けたところで、僕は意を決して話しかけた。


「えっと……お久しぶりです、琴羽さん」

「は、はい」


 おっと、会話終了ですか?

 僕も下手くそだけど、琴羽さんも大概口下手だと思う。

 昔の琴羽さんは、もっとおしゃべりだったような気がする。それともあれは、僕が話さないから、一生懸命話してくれていただけだったのか。


「琴羽さんは、このあと時間平気なんですか? 予定とか」

「いえ。ないです。大丈夫です」

「では、僕ちょっと電話してきますね。バイトの代りをお願いしないといけないので」

「はい……いってらっしゃいませ」


 尻をずらしてボックス席のソファーから抜け出す。

 僕が立ち上がるまでの様子を、琴羽さんはじーっと見つめていた。その様子がなんだか子猫のようだと思った。こわごわと。ちょっぴり興味深々で、みたいな。

 

「すぐに戻ります」


 店の外に向かいながら、スマートフォンを取り出す。


「一番代りを頼みやすいやつって、やっぱこいつなんだよな」


 悪いと思いつつ、通話履歴の一番上に名前がきている相手に電話をかけた。


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