優しい偽りの結婚生活

浅月そら

第1話 今日からお前の嫁になる


「今日からお前の嫁になる、近衛琴羽このえことはさんだ」


「……え?」


 昼時の混雑が緩和された午後の喫茶店。

 ボックス席の対面でくたびれたスーツに身を包んだ親父は、真顔で冗談みたいなことを言った。


 僕は親父の隣でうつむいている女性に目を向ける。


 艶やかな長い黒髪に蛍光灯の光が反射して、綺麗な天使の輪ができていた。

 乳白色のブラウスにグリーンのロングスカートで、シンプルながら綺麗な装いは、いかにも清楚なお嬢様といった容姿をしていた。

 整いすぎるくらいに整った顔立ちは人というより作り物めいていた。美しいとは思うけれど近寄りがたい印象を受ける。


 その女性は、頬をうっすらと赤く染めて、唇をきゅっと結び、前髪の隙間から大きな瞳を覗かせて、ちらちらと僕の様子をうかがっていた。

 

 しこたま砂糖を溶かしたコーヒーをがぶ飲みした親父は、カップをソーサーに戻してにやりと笑う。


「結婚おめでとう」

「ふざけんな」


 バン、と勢いよく、親父がテーブルを叩いた。

 隣の琴羽さんが、ビクッと肩を震わせたのが、僕の視界の端に映った。


「親に向かってのそ口の利きかたはなんだ!」

「子供に結婚を強制する親に言われたくない! あとその机叩くやつ、やめたほうがいい。琴羽さんも怖がってたぞ」

「ん? そうか……琴羽ちゃんも、すまんな」


「い、いえ……」


 琴羽さんは一瞬親父に目を向けると、すぐにまたうつむいてしまう。

 なんだか、僕の記憶にある琴羽さんとはだいぶ印象が違うな。


 僕が最後に琴羽さんに会ったのは、たしか小学六年生のときだ。つまり、今から七年前。

 琴羽さんは中学一年生だったはずだ。

 

 その頃の彼女は、こんなにオドオドしていなかった。

 いつも背筋が伸びていて、胸を張っていたと思う。発育がよかったから、姿勢のいい琴羽さんはかなりスタイルがよく見えていたものだ……という話は、今は置いておくとして。

 当時の琴羽さんは明るくて優しくて、とてもいいお姉ちゃんだった。

 久しぶりに会って緊張しているのかもしれないけれど、それだけではない変節を感じる。


 それになぜ急に、僕の親父が琴羽さんを連れて会いに来たのかも気になる。


 僕が疑いの目を親父に向けていると、その視線に気がついたらしい。

 へらへらと笑って話を続けた。


「ほら、琴羽ちゃんだぞ。昔よく世話になったのに、忘れたのか?」

「そんなわけないだろ」


 僕の返事を聞いて、琴羽さんがハッと顔を上げた。驚き半分、安心半分、といった様子に見える。


「琴羽さんは僕の恩人だ。そんな人を忘れるわけがない」


 追加で発した僕の言葉に、琴羽さんはまた顔をうつむけた。

 僕は内心、頭を抱えた。


 やっちまったー!


 むかし憧れていたお姉ちゃんの前でいい格好したいというスケベ心が発動した。


 目の前の父親がにやりと笑う。


 なんかクソ腹立つな、その笑い。

 親父に小バカにされる材料を自ら提供してしまった自分を呪う。


「ぶははっ」と親父が笑う。


「恩人か。そりゃあいい。だったら話が早い。お前、琴羽ちゃんと結婚しろ」

「いや、結婚とか無理だろ。僕まだ大学生だし」

「嫌じゃねえんだろ?」

「え? あ、いや、それは……」


 とっさに返事ができずに、僕は無様に狼狽えた。


 こんなに美しい人はいない。


 昔の僕はいつもそう思っていた。

 学校でも町中でも、至るところで注目を浴びていた。それくらい、琴羽さんは華やかだった。

 顔の造形は人形のように整っていて、黙っていると冷たい印象を与えた。けれど穏やかな笑顔が絶えないおかげで、マイナスな印象を与えることなく、むしろ愛らしさを感じさせた。


 僕が近衛家でお世話になった理由は、両親が離婚をしたからだ。

 母親はいなくなり、仕事に忙殺された親父はほとんど家には帰ってこない。

 息子の食事とメンタルケアのために、親父の親友の家に預けられた。その親父の親友というのが。近衛弘明さん。琴羽さんのお父さんだ。


 心も体もボロボロだった僕に優しくしてくれたのは、琴羽さんだけだった。琴羽さんが僕を見捨てないでくれたから、立ち直ることができたのだと思う。

 そんな憧れの女性と結婚しろと言われて、嫌なんてことはあり得ない。


「あ、あの」


 琴羽さんに声をかけられて、僕はハッとした。

 真っ赤な顔を両手で挟むようにして支えながら、琴羽さんが呟く。


「そんなに、じっと見ないで……ください」

「……え?」


 思い出を辿る間中、僕はずーっと、じーっと琴羽さんを見詰めていたらしい。


「す、すみません!」


 横の親父でも見て落ち着こう。そう思って視線をそらす。

 親父は親父で、ムカツクにやけ顔を向けていた。


「満更でもないって顔だな、優一朗」

「そんな顔してない!」

「そうかあ?」


 笑いながら、親父はサービスのお冷をがぶがぶと飲み、その氷をガリガリと噛み砕く。


「まあ、こんな美人でいい子と結婚できるなんてラッキーだ! お前もそう思うだろ?」


 上機嫌の親父は、左手を琴羽さんの肩に軽く手を置いた。


 その瞬間、ガタッと机を揺らして、琴羽さんが勢いよく立ち上がった。

 

 それは僕と親父だけじゃなく、周囲の人の注目をも集めてしまうくらい、大きく、過剰な反応だった。

 琴羽さん自身も驚いていた。どうやら反射的に起こしてしまった反応らしく、オロオロしながら申し訳なさそうにしていた。


「ご、ごめんなさい……」


 ぎりぎり聞き取れるくらいの小さな声で謝罪の言葉を述べる。

 胸元に当てた手は小刻みに震えていた。


「いや、俺のほうこそわるかった、すまん、琴羽ちゃん」

「……いえ……こ、こちらこそ、申し訳ありません……」


 座り直した琴羽さんは、今までよりもちょっとだけ、親父との距離が開いていた。


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