第1話 あーしを置いて行かないで。
メイクを終えたあーしは、パジャマの裾をぶらぶらさせながら、洗面所から出て、台所へと向かう。
包丁が奏でる子気味良いリズムが聞こえてくる。――もう起きてるんだ。
「おはよう」とか言って台所に顔を見せる。
「おはよう、らら。――誕生日おめでとう」
落ち着いた声音でそう返してくれるのは、ママだ。
身内のあーしがいうのも変な話だけど、年のわりに若く見える。身長が低めのあーしより、さらに低い身長で、ミディアムボブの髪を揺らしつつこちらへと振り返る。
こちらを振り返った表情は柔らかくて、娘のあーしですら美しいと思ってしまう。
「……ありがと」
嬉しかったけど、こうも面と向かって言われるのは少し恥ずかしかった。そっと目を逸らす。と、ママの手元が目に入る。
均一に切られた紫玉ねぎと、何枚かおいてあるそのままのレタス。
――サラダだ。
「あーしがやるよ。それ」
簡単な料理くらい手伝いたい、というあーしたっての希望によって、朝ごはんは一品あーしが料理することになってるのだ。……といっても、味噌汁とかサラダとか、比較的簡単なものだけだけど。
だから、サラダを作るのはあーしの仕事のはずで。
いつものように手伝おうを手を伸ばしたが、制止を受けてしまう。
「気持ちだけ受け取っておくわね。誕生日の今日くらいゆっくりしてなさい」
有無を言わせない……それでいて落ち着いた様子で言われてしまうと、あーしは何も言い返せない。頷く。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「あ――待って!」
そそくさと出ていこうとしたあーしを引き留めて、ママは続ける。
「今日のメイクも、すごく似合ってるよ」
「……ありがと」
短く返したけど、やっぱりちょっと照れくさかった。熱を持った頬を掻いて、自然と上がる口角を気にしながら、台所からそそくさと退散した。
……自分が頑張ったことを褒められるのはやっぱり嬉しい。
フローリングの上をぺたぺたと歩く。
台所を抜けた先はリビングだ。ベージュ色のソファに体を投げ出して、息を吐く。ひんやりとした革の感触が気持ちいい。
ふぁ……と欠伸を一つ。手持ち無沙汰だった。
特にしなきゃいけないこともないので、手癖のままスマホを取り出す。
夜のうちに溜まっていただろうLINEの返事でもしよう。
いつもマナーモードにしてるから、こうして自分から確認しないと通知に気づけないのだ。
ホーム画面の右下、一番押しやすい所に置いてあるLINEのアイコンをタップして立ち上げる。
十数件。
例年よりいくらか多い。いくらかの仲のいい親戚と、たくさんの友達が誕生日を祝ってくれている。もちろん、中にはみなちゃんもいた。
一人一人、連絡が後から来た順に返信していく。
こうしてみると、誕生日を祝ってくれる友達は高校の人ばっかりだ。
昔から、友達を作るのがそんなに得意じゃなかった。
あーしは元より明るいキャラではない。
一人称を「あーし」にした理由だって、少し毒舌なハキハキと喋るアニメのギャルに憧れたからだ。
そんなだから、万人に愛される人とは程遠いみたいで、数少ない友人とじっくり仲を深めることを選んだのだ。それ自体に後悔はないが、ちょっと惜しい気持ちもある。もしあーしが別の道を選んでいたら、とか。
「ま、もしそうだったらあーしがみなちゃんに憧れることもなかったんすけどね」
小さな人間関係の中で生きているあーしと全然違う、クラスでの立ち位置が絶対的に確立されているのがみなちゃんだった。
素直にすごいと思った。かっこいいと思った。
きっとみなちゃんは、あーしが見てこなかった景色を見てきた人なんだろう。そんなことを溜息混じりに思ってしまうくらいに、あーしとはかけ離れた、憧れの存在。
あーしと全然違う、あーしに優しくしてくれて、それでいて、困った時に助け合えるような中の人。
だから、みなちゃんに恋をした。
その話はおいておいても、みなちゃんは初めてできた同性の友達だった。
小さいころから、親友と呼べるほどの親しい友人が幼馴染のヤツしかいなかった。
同性との交友関係なんてからっきしだ。
外で遊ぶのが好きだったからか、女の子の集団からはちょっと孤立していて、よく遊ぶ友達だってほとんど男の子ばっかりだった。
男の子の集団の中では、気が楽だったのを覚えている。不安なこととか、心配なこととかを全部ほっぽりだして、一緒にスポーツをした。その瞬間、どんな時でもあーしは他のどんな男の子とも対等だった。
でもたまに、自分が孤立しているのが怖くなって、幼馴染のヤツに相談に乗ってもらったりした。中学に入ってあーしにテニス部の友達ができてからも、その習慣は続いた。
あーしが信用していたのは、頷き上手の女の子じゃなくて、小さいころからよく知っている彼だけだったのだ。
――信用していた、なんて。これはそんな綺麗な言葉で言っていい感情じゃない。
依存していたのだ。
中学の終わりの頃、彼が自分のことを気にしている様子なのはなんとなくわかっていた。
いたけど、自分はそれに気づかないふりをして、無邪気に連れまわした。
告白された。断った。その結果が
「はは」
なにも変わらず、ずっとそのままで居られればと思う。彼のことを責めるのは違うとも、自分で分かっている。
でも事実として、人は変わっていくし、あーしは取り残されていく。
だから今も、ぎとぎとした黒色の気持ちが、心の中に広がっている。ヤツに相対していると自責の念に支配されそうになる。その上ヤツはみなちゃんの恋人と来た。嫌な感情がいっぱい渦巻く。
でもそのことを考えていると嫌になってくるから、言葉としてうまくまとめられていない。
だから今は、全部、嫌いだってことにしている。幼馴染も、恋も、変化も、全部。
だから、みなちゃんが自分以外と幸せになって、あーしと距離感が生まれちゃったら、自分はどうすればいいんだろうかなとか。
……不安だ。
どうしようもなく、不安だ。
あーしを置いて行かないで。
「――この話はもう良いんだって」
自分で悪い思考のループに陥ってしまっているのが分かって、我に返る。
少しでも余計なことを考えると、どんどん気がめいってしまう。頭をぶんぶん振って、考えをリセットする。
ぺちん――頬を叩く。これで目は覚めた。
今日は誕生日だ。暗い気持ちで居るのはもったいない。
あーしを祝ってくれる人はたくさんいるし、気の許せる同性の友達だっている。トーク画面のお祝いの文章だってこんなにある。
その中に幼馴染のヤツの姿がないのが胸にちくりと痛いけど……でも、気にしなければどうということはない。
しばらく、無心で返信を続けていた。
短い文章にはスタンプを、長い文章には相手の話を汲んで、それぞれ返していく。
慣れないことだったけど……楽しい。
ついに最後の一件――みなちゃんからのメッセージ。
何が書いてあるんだろう。
そういえば、あーしの誕生日には、お菓子を持ってきて学校でちょっと話そうよとか話していたんだっけ。覚えていてくれてるかな。ほんとはどこか遊びにいったりしたかったけど、これから楽しい生活が待ち受けているだろうみなちゃんのお金を奪うのは、こちらから提案するにはちょっと忍びない。……それとも、誕生日を忘れられているかもしれない。自然な雰囲気で彼氏の惚気を聞かされるとか? それはちょっと嫌だな……。
色々考えて、怖くてちょっと躊躇して。
それでも結局目をつむったまま、恐る恐る、震える手で、開いた。
そこから目を開けるのにはしばらく時間を要した。途中、スマホを投げ捨ててしまおうか真剣に悩んだ。
……けど、それは杞憂に終わる。
『今日の放課後、いつものみんなとコメダで誕生日会しよ!』
『誕生日おめでとう!』
あれだけ開くのに時間がかかったあーしの目は、細められる方には時間はかからなかった。
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