第一章 第五節 第六話

 相模圭が持ってきた依頼というのは、とどのつまり彼の妹と同じものだった。いや、正確には少し違うか。


 相模由布子の依頼は『周防を止めること』で、相模圭の依頼は『周防を止めるため瀬津湊に手を引かせること』だったのだから。


 周防が丑の刻参りを始めたのは瀬津湊にそそのかされてのことだった。たまたま――瀬津の言い分では本当に偶然かどうかも怪しいらしいが――周防が飛び降りる瞬間に立ち会った瀬津湊は、一命を取り留めた彼女にある提案をした。


 どうせ死ぬのなら、君達の無念を晴らしてからにしてみないか、と。


「だけど、あの女が伝えた方法には、不備があった。おそらく意図的にね」


 ――誰にも見られてはいけなかったなんて、ちょっと調べれば分かったことなのに――周防のものと思われる日記にはそうあった。


 だが……


「瀬津お前、前に『丑の刻参りには正しい手順なんてない』とか言ってなかったか?」


「そう、あの儀式に正確な手順は存在しないし、そもそも何人もの人間を呪い殺すほどの力はない。だけどね、あの子は信じた。信じていた」


 藤堂も、堂島さんも、ただ淡々と語られる話に耳を傾けている。その様子を伺うことなく、瀬津はやはり感情を欠いた声で続ける。


 五年前。時期的には出羽が死んだその日。仕事で遅くなった相模圭が、頼りない足取りで夜道を歩く周防を見つけた。その奇異な格好に最初は面食らい、しかし何か事情があるのだろうと黙って送り届けた。翌朝には事情を聞かされ、紆余曲折の末、儀式の日に彼女を送り迎えすることになったのだという。


 つまり。


「初めからね、丑の刻参りは成立していなかったんだよ」


 それを聞き、あまつさえその証拠すらも突きつけられた周防は、逃げるように部屋へ駆け込み、その直後には中から何もかもをひっくり返す音が鳴り響いた。それを聞いて瀬津は、少なくともこれで呪いの儀式に手を出すことはなくなるだろうと考えたようだ。


 などと、当の本人はこともなげに言うが、実際にはそう容易くはなかっただろう。今そこを突っ込んで聞くつもりはないが。


「周防が自分で殺しに行くとは考えなかったのか?」


「当然念頭に置いていたとも。まあ、そこは御影君がなんとかしてくれると思っていたけどね」


「手を引けとか言ってたくせにどの口が……」


 それならそれで一言あってよかっただろうに。俺が本当に何もしなかったらどうするつもりだったんだ。


「引けと言われて大人しくなるなら、君は今頃五体満足で安穏と暮らしているだろうさ」


 ……それは、そう、かも知れない。


 好奇心は猫をも殺す。俺の場合は、好奇心というよりもまた別の感情だったとは思うが。いずれにせよ俺が他人に大人しく従う性格だったら、死ぬことはなかったというのは頷ける。


 まるで示し合わせたかのように、三人が同時にカップを持ち上げた。それぞれがそれぞれを嚥下し、漏れたため息が混じり合って空気を複雑化させ、一時の静寂が広がった。


 やがて、それを破ったのはやはり瀬津だった。


「それに、私としてはどっちでもいいんだ――河内雪が死のうが生きようが」


 ……堂島さんが僅かに眉を潜めるのが見えた。それを知ってか知らずか、瀬津は言葉を続ける。


「彼女はもう依頼人じゃあないし、無辜の人間というわけでもない。因果の果ての応報なら、私が助ける義理はないよ」


 依頼人じゃない? 後半はともかく、初耳だった。


「どういうことですか?」


 これまで一切口を挟まなかった藤堂が、俺を代弁するかのように問うた。心做しか、言い方に棘が見えた気がした。


「そのままの意味で御座いますよ」


 今更取り繕う必要もないだろうに、余所行きの慇懃さを引っ張り出してきた瀬津は更に言う。


「一昨日、正式にお断り致しました。事情が事情で御座いますれば、彼女の依頼は当方がお受けすべきではないと。今般の騒ぎは、あくまで相模兄妹からの依頼による結果に御座います」


「あの、普通に話していただいて構いませんので……」


「では、遠慮なく――惨たらしく暴行して人一人を死なせておきながら、そのせいで殺されそうだから助けてくれなんて、手前勝手も甚だしいって話さ」


 私だって人の子だと、カップに残ったコーヒーを飲み干し一息つく瀬津。


 俺が聞いた話はただ単に『相模由布子はいじめられてそれを苦に自殺した』というものだったが、この様子ではより詳しく事情を知っているのだろう。


 そして、恐らく堂島さんも。割と濃いめのコーヒーを飲んでも眉一つ動かさなかった彼が、今は苦みをこらえるように口元を引き締め眉間を寄せている。


「何があったか、私からは言わないよ。ただ率直に言わせてもらえれば、あれでのうのうと生きていられる図太さには感心するね」


 瀬津が堂島さん以外に皮肉をぶつけるのを初めて見たかも知れない。それだけ、河内達の所業は許容しがたかったということか。


「とにかく。河内雪からの依頼は果たす必要がなくなり、周防さんは檻の中。一年後どうなっているかは分からないにせよ、ひとまず相模兄妹からの依頼は達せられたと判断できる――いかがですか? 相模圭さん」


 と、ソファの上で身じろぎもせずに横になったままの男に視線が集まった。


「……刑事さん、みずはちゃんは、どうなりますか?」


 いつの間にやら起きていたらしい。だが体を起こす気はないのか、それともその体力がないのか、横たわったまま首を巡らせ、相模圭はそう堂島さんを見た。


「分かりかねます。自分の感情としては不問にしてやりたいですが、最終的に起訴の要否を判断するのは検察ですので」


 そうですかと呟き、ぎこちなく体を起こし重々しく息をついた相模圭の前にコーヒーが置かれた。気づかない間に藤堂が用意してくれたらしい。


「瀬津さんはおかわりは?」


「頂くよ。ありがとう」


 仕方がないとはいえ、部外の藤堂が一番手際いいのはいかがなものか。ちらりと藤堂に目を向けると、丁度視線がかち合い、彼女は密やかに肩をすくめた。


「僕がもっと早く止めていれば、こうはならなかったんだろうか」


 目の前のカップに手を伸ばさず、ただ見下ろすだけのその目に何かが写っているようには思えない。


 誰かに尋ねたわけではないのだろう。だが、それに答える声はやはりあった。


「咎があるとするならば、ご妹御を追い詰めた者達、そして周防さんをそそのかしたあの女。相模さんには何の責も御座いません」


 それに、と。瀬津は言う。


「一時的に止められたところで、あの女と切り離さない限り徒労となりましょう。あれは酷く悪質な詐欺師の類で御座いますれば」


 二人の間に何があったにせよ、瀬津はよほど姉が嫌いらしい。いや、嫌いという段階はすでに通り越しているようだ。これまで一度たりとも名前を呼ばず、一度『姉さん』と言った以外は一貫して『あの女』か『あれ』。もしかすると人としても見ていない可能性すらある。


 二人の関係性を知ってか知らずか、相模圭が項垂れたまま問う。


「だったら、今回も同じになるんじゃないのか?」


 そのとおりだ。


 周防はいずれ釈放されるのだから、そのときに瀬津湊が周防と再度接触を図れば一緒のこと。結局のところ今回も根本的な解決にはなっていない。


 どうするつもりなのか。何か策を用意しているのか。改めて瀬津を見ると、


「その点はご心配なく。既に手は尽くしております故。もはやあの女には、周防さんとのつながりを保つ意味が御座いません。周防さんがご自身の手による復讐を望み、そのためにあの女に助力を請うでもしなければ、あれは二度とお二人の前に姿を表しますまい」


 何一つ曇りのない微笑を浮かべ、まるで何かを勝ち誇るかのように静かに、高らかに宣言した。

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