第一章 第五節 第五話

 街に戻ってきた頃には、もう空は白み始めていた。


 あの後、後部座席に二人を押し込んでから藤堂に体を返し、すぐに洋館を離れた。瀬津湊と遭遇するという、おおよそ考えうる中で最悪の事態は起こらず、上手く逃げおおせた、と思う。


 まあバレるのは時間の問題だろう。監禁していたはずの二人の姿がないのだから。


 しばらく走ると緊張がほぐれたのか、藤堂はすぐに眠りについてしまった。堂島さんは慣れているらしく危なげなく車を走らせ、途中で藤堂のバイクを回収してから、今は二人とも事務所に上がってもらっている。


 ソファの上には相模圭。一応の安全を期して、こちらに連れてきた。瀬津の部屋にあるベッドの上には、その主が未だに眠り続けている。いっそ病院に連れて行ったほうがよかったのではないかと思うくらい、どちらも目を覚ます気配が一切ない。


「藤堂さんは、もう帰られたほうが」


「もう少しだけいます」


 かれこれ一時間は経っただろうか。銘々コーヒーをすすりながら交わされた会話は、それだけだった。息が詰まるというわけではないが、どことなく気まずい。


 不眠不休で車を走らせた堂島さんと、俺に体を憑依させた挙げ句結果的に化物の住処に乗り込まされた藤堂。疲弊は当然のことで、そもそも面識がないのだからさもありなんといったところか。


 こういうとき、瀬津がさっさと起きてきてくれれば――そんな思いを何者かが聞き届けたか、隣室の扉が開く音がしたかと思うと、


「おはよう。私にもコーヒー、もらえるかな?」


 ……実にあっけらかんとした、さも普段通りの目覚めを迎えたかのような体で、瀬津がゆらりと現れた。








「手を引こうと思う。これ以上はやるだけ無駄だ」


 コーヒーで湿らせた口から出てきた瀬津の言葉に、堂島さんも藤堂も固まったまま動かなかった。それは驚いたというよりもただ話を聞こうとしているだけのようで、しかし瀬津の口から続く言葉はなかった。


 そもそもそれは二人に言ったのではない。瀬津の、よく見ればまだくまが残る目は、力なく俺を見ていた。


 手を引く? やるだけ無駄? これまで、彼女からそんな諦念が出たことがあっただろうか。あったかも知れないが、そういうときは往々にしてオカルトが一切絡まない案件だったときの話だったように思う。あのマンションでの一件のように。


「それに、勤君だけならまだしも、藤堂さんまで巻き込んでしまった。引き時だね」


「藤堂巻き込んだのはお前だろうが」


 そんな言葉もどこ吹く風。肩をすくめてわざとらしく眉をハの字に曲げるだけだった。最終的には俺も藤堂の手を借りたとはいえ、そもそも瀬津が根回ししていなければそうはならなかったというのに。


「涼香。何があったか聞かせてくれないか? ことと次第では、湊さんを逮捕できるかも知れない」


「してどうするのかな?」


 堂島さんに答える声は弱々しく、普段のやり取りの剣呑さも、あの神社の側で聞いた穏やかさもありはしなかった。


「それこそ無駄だよ。逮捕したところで、あの女はのらりくらりと逃げてしまうに違いない」


 ……生身で動いたあとだからだろうか、どうにも背中がむず痒いような、そんな錯覚がある。


 目の前にいるこの女は、本当に俺の知る瀬津涼香なのだろうか。慇懃な表と、見ようによっては不遜な裏を使いこなし、目的のためなら多少強引な手も使う行動力あふれる人間が、こんな匙の投げ方をするとはどうしても思えない。


「なら、藤堂さんと俺を巻き込んで、御影君に心配をかけたその償いと思って、話してほしい」


 その言葉に、藤堂が一瞬強張ったように見えた。どうせ、「自分は聞いていていいのだろうか」などと考えているのだろう。


 この中では一番――未だ寝ている相模圭は置いておいて――、瀬津との関わりが薄いのだからそう思うのは仕方ないが。堂島さんがわざわざ名前を出したのだから、いてもらわなければ逆に困る。


 俺だって、何があったか知りたいのだ。


「ずるい言い方だね。それじゃあ断れない」


 そう言いながらも瀬津の口元には、その言葉を待っていたかのような微笑が浮かび上がった。まるで、我が身に起きたことを語るための言い訳を手に入れて安堵しているように見えた。


「そう込み入った話じゃないさ。一連の騒動の主犯があの女で、それを止めようとしたら返り討ちにあった。ただ、それだけ」

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