第一章 第五節 第四話・後

 六方をガタガタの石レンガで固められた冷たい石室。明かりはぶら下げられた小さな豆電球だけで、部屋の全容を把握するにはあまりにも不足。だが、藤堂の体を借りたことで普段の夜目は利かなくなっているとはいえ、道中の暗さに慣れていたおかげで、薄っすらとその様子は見て取れた。手元にあるライトも充分な助けになっている。


 問題はその構造ではない。それそのものも、現代で目にするには異質もいいところではあるが、所詮そこまでだ。




 ――苦シイ、助ケテ、ゴメンナサイ




 ――死ニタクナイ、殺サナイデ、死ニタクナカッタ




 ――私ハ悪クナイ、オ前ノセイダ




 ――憎イ、恨メシイ、ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ




 ――死ネ、死ネ、ミンナ死ネ




 ――死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ――




 飾りを捨てた剥き出しの悪意、怒涛のように押し寄せる殺意の群れ。視界は歪み、脳は揺さぶられ、全身に切り刻まれたかのような鋭い痛みが走る。今にも気を失いそうな中でどうにか踏ん張っていられたのは、


『御、影……しっかり』


 絶え絶えでどこか遠い藤堂の声があったからだろう。


 そうだ、こんなことで倒れている場合ではない。危険を承知で乗り込んだ以上、醜態を晒すわけにはいかない。




 たとえ、血走りながらも淀んでくすんだ生気のない十二の目にじぃっと見つめられていても。




 部屋のど真ん中に居座る不細工な粘土細工に見えたそれは、見た者が胃の中をぶちまけるのに充分な、到底直視できる代物ではなかった。醜悪などと一言で片付けるには生ぬるい、人間の、いや生物の尊厳を容易く踏みにじり、正気を喰らい尽くす化け物に他ならなかった。


 それには、頭があった。皮が引き伸ばされ、無理矢理口と目を開かれ、絶えず悲鳴を上げ続けているような顔が、六つ無造作に生えていた。


 六人の顔には、見覚えがあった。誰も彼もが捻じれ、歪み、膨れ、それでも、間違いなく俺は、彼女らの顔を知っていた。


 出羽かなえ、上野浩一、三川夏菜、田島麻衣、加賀風花、そして、丹波明彦。己に降り掛かった不幸を嘆き、怒り、果てに何もかもを恨み妬むに至った者達が、彼女らを出鱈目に混ぜ合わせた塊が、闖入者を獲物と定めて呪詛を撒き散らしながら、そこにあった。


 乞うように、爪を立てるように、藻掻くように、すがるように、飛び出した手を、手だったのであろう何かを伸ばし、しかし届かずに空を切り続けている。それはまるで、地獄へ誘う手招きだった。


 こんなものは、最早怨霊ですらない。常識の外にある霊であっても自然にはこうはならない。誰かが、意図的にいじくり回さない限り。


「何なんだよ……」


『こんなの……』


 人間のやることではない――その言葉の主は俺か、それとも藤堂か。悍ましさのせいだけではない身の震えをようやく自覚し、


「涼香!」


 堂島さんの叫びに殴りつけられたかと思うと、視界に駆け出した彼の背中が飛び込んできた。


「堂島さん、駄目だ!」


 咄嗟に手を伸ばして彼の腕を掴み強引に引き止める。見た目どおりの強さで一瞬腕が持っていかれそうになったが、幸い堂島さんはすぐに立ち止まってくれた。


「真ん中にやばいのがいます」


 ここに来てなお、堂島さんには何も見えていないし感じてもいないらしい。それは、幸運と呼んでいいだろう。これほどのモノ、如何に霊感がなくとも何か違和感を覚えても不思議はないのだが。


「瀬津は反対側ですか?」


 逆に、俺にはあれのせいで向こう側に何があるのか全く見えない。だが堂島さんが気づいたということはそういうことだろうし、


「ああ。意識はないようだが……」


 それなら回り道すべきだろう。流石にあんなものに近づくなんてごめんだ。


「それと、もう一人いるみたいだ」


「もう一人?」


「男性のようだが。そっちも気を失っているようだ」


 関係者の中で男というと、相模圭だろうか。しかし、だとすると何故こんなところに? 状況から考えて瀬津の監視をしているというわけではなさそうだが。


「迂回しましょう。とにかく中央は駄目です」


 奴らの目はこちらをじっと見てくる。できれば一刻も早く視界から外したいが、目を逸らした瞬間に何かあったらと思うとどうしても視線はあれに向いてしまう。いっそ走り抜けてしまえたら――だが、それであれを刺激することになったら……


 壁沿いを一歩一歩、度を越した慎重さで進む。進む度、奴らは首をよじり俺を真正面に見据え続けている。その様を横目で捉えたまま、呼吸は浅く、歩調を乱さぬようジリジリと。


 相変わらず脳を揺さぶる怨嗟の合間を縫って、背中にかすかな圧力を感じる。俺が薄氷を踏む思いでいる中、堂島さんは堂島さんでもどかしさを感じているのだ。堂島さんにしてみれば、すぐそこに瀬津がいるのに駆け寄れないこの状況、むしろ俺に対して怒りすら覚えているのではないだろうか。


 ついこの間まで、瀬津と堂島さんは仲が悪いとばかり思っていた。だが、ここ最近のことを思うと、むしろその対極にあるようだ。顔を合わせる度にああなるのは、この二人なりのコミュニケーションなのかも知れない。


 そんな、今考えても仕方のないことに思考を割いている間も、六対の瞳に、不躾なまでに全身を舐め回され、胃の中身が喉の奥までせり上がってくるようだ。藤堂はいつも、こんな目に合っていたのか……


『ここまでひどいのは、今までなかったよ』


 まあ、そうだろうな。あんな、自然発生のしようがない化物、早々遭遇してたまるか。


 部屋の隅に辿り着き、改めて視線を向けると、堂島さんの言ったとおり向こうの壁に人影が二つ見えた。恐る恐る明かりで照らすと、それは確かに瀬津と相模圭のようだった。二人ともぐったりとしていて、ここからでは無事を確かめようがない。


 少し、急ごう。徐々に歩調を強める。幸い、やつが何かしてくるということはなく、ただ恨み言を繰り返し尺取り虫のように腕を蠢かせるだけだった。


 そうして、俺達が瀬津達の元へ辿り着いてからも、その様子は変わらなかった。瀬津の様態を確認する堂島さんと、相模圭の脈を測る俺、その二人を見開いた目で見つめながら、その場を離れようとはしない。


 もしかしたら、動けないのだろうか。


「……息はある。そっちはどうだ?」


「大丈夫みたいです」


 ただ、二人とも起きる気配は全くない。起きたとしても、両手両足を縄で縛られた状態では逃げようにも逃げられないだろうが。


 無事な以上さっさと連れ出すべきだ。部屋に繋がれているわけではないようだから、背負うか抱えれば行けるが……意識のない人間を二人か。


『体格的に瀬津さんなら背負っていけると思う』


 確かに瀬津の肉付きは健康的とはいい難い。藤堂の力なら、気を失っている点を加味しても大丈夫だろう。


「俺が瀬津を運びます。堂島さんはこっちを」


 言って、足首の縄に手を伸ばす。手のほうはともかく、こちらは解かないことには背負うに背負えまい。


 ナイフでもあれば楽なんだが――と、存外あっさりと結び目は崩れた。見れば、堂島さんも相模圭の拘束を解いたところだった。


「行こう」


 背負った瀬津は思った以上に軽く、触れた肌に熱はない。一瞬ゾッとしたが、かすかに聞こえる吐息が瀬津の命の在り処を教えてくれている。




 結局、部屋を出るまで、あの化物が手を出してくることはなく。戸を閉めた途端に、耳鳴りのような呪詛は消え、先程までの吐き気も何処かへと消え去った。

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