第一章 第五節 第四話・前

 辟易するような濃密な湿度、昼間に染み込んだのか扉の先の狭い通路はやけに熱気がこもり、ちょっとしたサウナかと思うほどだった。だが、慣れてしまえばどうということはない。そのせいで流れる汗の感覚は、今や懐かしさ以外の感情を呼び起こさなかった。


 ただ、蒸し暑さのせいだけではない息苦しさは、胸の奥で黒いモヤとなってじわじわと溜まり始めている。今のところは致命的な何かに襲われるようなことは起こっていないが、このままいけばいずれは俺か藤堂、あるいはそのどちらにとっても好ましくないことになる。


 地下に潜ってそろそろ五分くらいは経っただろうか。時間も方向も感覚は失われた。分かるのは、手にしたライトが照らす僅かな範囲の景色が一向に変わらないことと、進むにつれ、囲われた狭路特有の圧迫感とは別の何かが、全身を押し潰そうとしていること。そんな中で背後から聞こえる足音はやたら頼もしく、何にも増して心強い。


「堂島さん、大丈夫ですか?」


「ああ」


 振り返ることなく問う俺の背中に、堂島さんは力強くそう答えた。もっとも、彼ならよほどの状況でない限りそう言っただろうが。


「藤堂は?」


『まだ大丈夫。ちょっと気持ち悪い感じはするけど』


 肉体的には不調はない。きっとそれは、藤堂の精神が感じているもので、俺もそれには覚えがある。


 今ではない。例えばあの廃神社を初めて訪れたときや、この洋館で瀬津湊に出会ったときに感じた嫌悪感や違和感、おそらくはそれに近いものだ。


 ――不意に、鼻腔を何かが刺激したような気がした。それまでのざらついた空気に混じって、何か、こう……腐った生ゴミのような、いや、そこまで強烈ではないが……


「何か、臭いません?」


「そうか? 埃っぽいとは思うが」


 ということは、もしかしてこれが――いや、決めるのは早計か。単に堂島さんの嗅覚がまだ認識できていないだけかも知れない。


 一歩、また一歩と進む。やはり徐々に臭いが強くなっているようだ。まだ鼻をつまむほどではないが、少しずつ、確実に不快さが増している。


『御影、多分だけど』


 分かっている。だが、まだ確定ではない。もし途中で堂島さんが臭気に気づけば、違うということになる。できることなら、そうであってほしい。


 だが……いよいよ普通に息を吸うのも辛くなり始め、口で浅い呼吸を繰り返し始めてもなお、堂島さんが何かを気にするような素振りはなく――


「また扉だな」


 目の前にまたしても重厚な鉄の扉が現れたその瞬間ですら、堂島さんはただ平然とそう言うだけだった。


 もうどう足掻いても隠しようがないほどの異臭が立ち込めているというのに、振り返ってみても平然としている。顔つきこそ今にも挑みかかりそうな雰囲気を漂わせているが、呼吸に乱れは見当たらない。


「本当に臭いませんか? 何か腐臭みたいな」


「いや」


 ――これで決まった。




 この臭いは、藤堂が霊と遭遇したときに感じているものだ。




 肉体自体は藤堂のものだから同じセンサーが働いたのか。こういう感覚は、精神の側に引っ張られると思っていたのだが。


 何にせよ、この扉の奥には何かがある。その何かがどういったものであれ、


『多分だけど、相当やばいのがいるんじゃないかな、これ……』


 あるいは、怨念怨霊がこの奥を埋め尽くしているか。吐き気を催すこの悪臭を共有してしまっているのか、俺が抱いた抗いがたい不快感を読み取ったのか、藤堂の言葉にはあからさまに気圧された様子があった。


 どうする。この先に瀬津がいるという保証はない。このまま無闇に突っ込んで無事でいられる保証も、完全になくなった。


 引き返すべきだろう、どう考えても。この先に待つであろう何かに、この中で最も近い立ち位置にいる俺は論外だし、霊感持ちの藤堂は当然、堂島さんも無事で済むかどうか怪しい。


 これだけの気配、霊感の有無など何の意味もなすまい。霊障は本来そこに関係なく、霊媒体質であるほうが影響を受けやすいというだけの話なのだから。


 ……そう、霊媒体質のほうが、より悪い事態に陥る。力が強ければ強いほど、顕著に。ならば、もし瀬津が中にいるとしたら、今頃――


『行こう』


 お前、それ分かって言っているか?


『今ならまだ間に合うかも知れない。だけど、引き返したら本当に駄目になる。私のことは気にしないでいいから』


 気にするなと言われても無理な話なのだがそれはさておき。


 藤堂の言葉は正しい。無事にここに立てている今、これ以上の好機は訪れないだろう。


 必要なのは、正気を保っていられるだけの胆力。藤堂が腹を据えたのなら、俺も相応の覚悟を決めるしかない。


「……堂島さん。この先、かなりまずいです」


 あとは彼だけだが、それは正直確かめるまでもない。


「任せろ。何があっても、絶対に無事に連れ出す。勿論、涼香もな」


 絶対、か。確証も何もなくそう安々と言ってのけるのは、まだ堂島さんが何も感じ取っていないから――いや、たとえこの異質さに気づいていたとしても、彼ならそう宣言し、現実のものとするだろう。そう思わせる凄みが、静かな声色にはあった。


「車で待ってろとはもう言わないんですね」


「言いたいところだが、二人とも言っても聞かんだろ」


 まあ言って聞くようならここまで来ていないが……


『御影も私のことは言えないよね』


 仕方がないだろ、恩人の命がかかっているのかも知れないのだから。


 ――とにかくだ。全員行くというのなら、こんなところでこれ以上立ち止まっている必要はない。


「じゃあ……行きます」


 軽く深呼吸一つ。扉に手をかけ、充分に十全の用心をしつつ、ゆっくりと押し開く。見た目どおりの重さに反し、音は全く立たなかった。


 隙間が広がると、いよいよあの悪臭が濁流のように襲いかかってくる。いくら口呼吸をしようとも、意味はないようだ。鼻に逆流しているのか、そもそも現実の臭いではないこれにそういう理屈はないのか、とにかくすぐにでも胃の中身がひっくり返りそうだ。


 だが、今ここで吐くわけにはいかない。奥歯を食いしばり、更に扉を開くと――




 待っていたのは、文字どおり地獄だった。

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