第一章 第五節 第三話・前
書斎に戻り藤堂を椅子に座らせしばらくすると、様態はすぐに落ち着いた。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です」
とはいえ、万全とは言い難い。あの一瞬で、彼女の体力はごっそりと奪われてしまったようだ。その『大丈夫』を信じるに足る要因は、残念ながら見当たらない。
「車まで送りますので、休んでいてください」
「でも、それだと御影の声が」
そんなことを言っている場合ではない。このまま先に進ませれば、藤堂は間違いなくあの日と同じことになる。それは避けなければならない。
「私は大丈夫ですから、行きましょう」
「ですが……」
とはいえこうなった藤堂は頑固だというのはもう学んだ。強引に連れ出したとしても、最悪勝手についてきてしまう可能性もある。それなら始めから目の届く場所にいてもらったほうがいいだろう。
――だが、どうすれば。
「御影」
と、いささか唐突に呼びかけられたかと思えば、
「もう一度、私に取り憑いて」
……などと、とんでもないことを言い出した。
「断る」
意味が分からないだとか、そもそもあのときの憑依は偶発的で意図したものではないだとか、そもそも他人の体を乗っ取る方法なんて心得ていないだとか、そういうことは置いておいて、
「何があるか分からないんだぞ」
不確定要素が多すぎる。
あのとき、周防を止めたあとにどうにかこうにか藤堂の体から抜け出したあと。藤堂はひどい頭痛に見舞われ、それがしばらく続いていた。それが憑依による影響なのかは判然としないが、違うと言い切る要素もない。
つまり、藤堂に何かしらの身体的悪影響がある可能性が、否定できない。それに、
「大体何の目的で」
「御影が私の中に入ってたら、他のが入り込む余地がなくなるんじゃないかなって」
その理屈は、果たしてオカルトに通用するのだろうか。
「それに、そうすれば御影が直接堂島さんと話せるし」
「そりゃそうだが」
いちいち藤堂を介さなかればならない都合、どうしても堂島さんとのやり取りはテンポが悪い。それが解消されるのは正直助かるが、それと彼女の安全とを天秤にかけられるわけがない。
堂島さんを見る。俺の返事は聞こえていないはずだが、藤堂の言葉から断片的にでも話を理解しようとしているらしい。眉間に刻まれた鋭いシワが、浮かんだ渋面と合わさって鋭利な刃物のようだ。
「安全を保証できない。悪いが却下だ」
そもそも地下に瀬津がいるという保証もない。現状で一番可能性が高いというだけの理由で、本来関わる必要のない人間を危険晒すわけにもいかないだろう。
だが、藤堂はそんな俺の考えなどまるで意に介していないようで、
「本当にやばいと思ったら引き返してくれていいし、そのときは車で大人しくしてるから」
「場所の問題じゃなくて、俺がお前に取り憑く危なさの話だ」
かつて何が起きたのか、まさか忘れたわけではないだろうな。
五年前、藤堂はとある霊に取り憑かれた。唐突に生を終えさせられてしまい、死の瞬間を反芻し続ける哀れな霊だった。その痛みは藤堂を激しく苛み、俺が見つけたときには、それが藤堂であると気づくのが遅れるほどに憔悴していた。
痛い、苦しい、助けて。
どうして自分が。
死にたくない。死にたくなかった。
怨嗟はやがて一つの巨大な感情となり、爆発した。それに飲まれた俺は、あまりにも直接的な息苦しさに、ただ逃れようともがくことしかできなかった。
「ここには綾姉さんはいないんだぞ」
その瞬間に綾姉さんがやってこなかったら、もしかしたら俺の命はもっと早く尽きていたのかも知れない。姉さんの手によって、俺の首をへし折りそうなほどの力で締め付けていた藤堂は引き剥がされ、藤堂を乗っ取っていた死霊は、その場で強引に彼女から引きずり出された。
当時の霊感がなかった俺にも薄っすらと見えたほどの悪意、あるいは悲嘆は、その後綾姉さんの手によって向こう側へ送られた。
「御影は、あのときの人とは違うでしょ」
「同じだよ。殺されて、その癖未だに留まってる厄介な死霊だ」
対話が可能かどうかは関係ない。俺もまた、本来ならいてはいけない存在であることに違いはないのだ。
俺自身の未練がなんであるにせよ、突き詰めれば『死にたくなかった』に収束するのだから。仮初であっても、再び肉体を得るようなことは慎まれるべきだろう。さっきのはあくまで偶然、しかも切羽詰まった状況だったから逆によかったが、自らの意思で取り憑くとなると、どんな欲望が鎌首をもたげるか分かったものではない。
だというのに、藤堂ときたら。
「違う。だって、御影が近くにいても、全然、何もないもの」
――それは、どういう。
「どんなに悪意がない幽霊でも、そばにいたら少しは気持ち悪くなるの。だけど、御影だとそうはならない。だから、御影は他の霊とは違うって断言できる」
そんなものは藤堂の主観、あるいは楽観以外の何物でもない。実害は、実際に起こっているのだから尚更だ。
だが、その『違う』という言葉は嬉しい。その言葉を信じて、もう一度憑依を試してみてもいいのでは、なんて考えてしまう自分がいるのは確かだった。
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