第一章 第四節 第六話・後
周防の、あまりにも痩せ細り、骨ばかりが目立つその手首を握りしめるありえない感覚が、掌に走った。
「離せ……!」
振り払おうとしているのだろう、周防は身を捩らせながら藻掻くも、その力はあまりにも弱々しく、片腕だけでも充分抑えられる。
何が起きているのか。大凡の予想はつきながらも完全には把握できないまま、今はそれどころではないともう一方の腕で周防の腰を締め上げた。
ゾッとするほどに細い。加減を間違えればあっさり折れてしまうのではと思うほどに。だが、力を緩めるわけにはいかない。
「悪いが、こっちは相模から依頼を受けてんだ。殺させるわけにはいかないんだよ」
俺が喋ったはずの声は、やはり藤堂のそれだった。
要するに俺は、無意識の内に藤堂に憑依していた。
歓迎できる状況ではない。あまり長いことこの体に留まっていると、藤堂がどうなるか分かったものではない。最悪、あのときの焼き増しになりかねない。
それでも、今は。
「圭さんだって、こいつらが死ぬのを望んでたのに、何を今更――!」
静かな鬼気を込めて唸る周防の視線の先には、口元を押さえつけられて喋ることすらままならず、ただ目を見開いて恐怖にすくむ河内の姿。目立った傷はなく、少なくとも肉体的には無事なようだ。
「そっちじゃねえ。お前の友達のほうだ」
なお暴れようとする周防にそう告げる。だがやはり、彼女の力が弱まることはなく、しかし藤堂の体はそれをものともしない。出刃包丁ごと周防の手を掴んだまま、微動だにさせなかった。
「由布子は死んだ。そんなことあるわけ」
「あるんだよ。こちとらオカルト探偵、依頼人は生きてる人間だけじゃない」
提示できる証拠なんてない。だから、相模由布子の言葉をそのまま伝えるくらいしか、今の周防をなだめるすべがない。
「相模由布子は、お前が苦しむのが嫌だと言った。河内を助けることになっても、止めてくれって言ったんだ」
これで止まらなければ、あとは実力行使しかない。借り物の体で他人に暴力を振るうのに躊躇がないわけではないが、目の前で死人が出るよりはマシだ。
――望みが通じたのか、周防は全身から力を抜き、それ以上足掻こうとはしなくなった。だが、まだこちらが手を離すわけにはいかない。
「如何にも由布子が言いそうなことだね……うん、あの子なら、こんなことは望まない」
最初に会ったときと同様、いや、それ以上に生気に欠いた抑揚のない声が、虚しさを落とした。
「そんなこと、分かってる」
「だったら」
「だけどそれじゃ、私が私を許せない」
足元の、頭上の、周りを取り巻く闇が一層濃くなった。
「あの子の苦しみに気づけなかった。あの子を助けられなかった。あいつ等を呪うことすら、まともにできなかった。もう私には、これしかない」
耳に歯噛みする音が届き、その体に再び力が込められる。だが、それでも拘束を振り払うことはやはり叶わず、ただ歯の隙間から獣のような唸りがか細く漏れるだけだった。
「だから、邪魔するな……!」
「はい分かりましたってわけには――」
思いの外藤堂の力は強く、体幹もしっかりしているようだ。これなら――
それを生かして、周防を河内から引き離す――!
「いかないんだよ!」
見た目どおり、いや見た目以上に周防は軽かった。強く踏ん張る必要も殊更反動を利用する必要もなかった。そこまでとは流石に思わず、
「っ……!」
ほとんど投げ飛ばすようなことになってしまい、勢い余って俺自身も背中を強か打ち付けてしまった。
本当に久しぶりの痛みという感覚。だが狼狽える暇はなく、
「すまん、大丈夫か?」
小さなうめき声が聞こえた。もしかすると頭を打ったかもしれないと、すぐに身を起こして傍らの周防に目を向け――
不意に差した月光が照らし出したのは、それを弾きながら迫る凶刃だった。
かわせたのは偶然といっていい。お互いに無理な体勢で動いたのも重なったのだろう、俺も周防もバランスを崩した。
何にしても間一髪……
「待て待て!」
などと呑気に安堵している暇などあるわけがなく、二撃目はすぐに返ってきた。なんとか身を捩ると、刃がアスファルトを突いた。それを見て思わず、周防の手を思い切り払った。
「あ……」
上手いこと当たった衝撃で包丁は路地の奥の闇に滑り落ち、それを追おうとした周防に、もう一度背中から組み付いて抑え込む。
「いい加減諦めろ!」
なおも周防は諦めない。地面を引っ掻くように暴れ、足掻き、しかし叶わぬと分かったのか、次は腕を無理矢理振り回してこちらを殴ろうとしてきた。
何度か肘が当たり多少鈍い痛みが走る。だが耐えられないものではない。というか、痛みに不慣れなせいで過敏になっているだけで、実際には抵抗にもならない程度のものだ。
……やがて、そんなささやかな抵抗すらなくなり、彼女が大人しくなり始めた頃。
――暗闇の向こうから、カタリと音がした。
はっとして音を追うと――
「……河内、それを置け」
切っ先は定まることなくガタガタと震え続け、膝は滑稽なほどに笑う。そんな無惨な有様で、顔を計り知れない恐怖で引きつらせたまま、河内がそこに立っていた。
「もう周防には、アンタに手出しさせない。だから、そんなもの捨てろ」
一つでも手を間違えれば、周防どころか俺も刺されかねない。そうなれば、当然藤堂も巻き添えを食ってしまう。だから下手は打てない。言葉での説得に応じるような状況になかった周防とは、話が違う。
ああ、嫌だ。どうしてもあの日のことを思い出してしまう。人生で二度も、しかも同じ方法で殺されるなんて、御免被りたいものだ。
声が聞こえていないのだろうか。河内は包丁を離そうとはせず、目玉が零れ落ちそうな程に目を見開いて、ぜぇぜぇと荒い息を繰り返している。その姿は、これまでの誰よりも怨霊のそれだった。
「河内」
もう一度、呼びかける。
少しずつ、体の震えが引いていくのが見える。だが未だに刃は向けられ、顔は引きつったままだ。
と。
「……死人は――」
ようやく開いた口から、
「死人は、死んでなきゃ――!」
締め付けられた喉から絞り出すような、ノイズ混じりのかすれた悲鳴がこぼれた。そう呼ぶにはあまりに小さく、弱々しい。だがそこには、どうしようもなく醸成された恐怖と嫌悪があった。
当たり前だ。死んだと思っていた人間が、よりにもよって自分を殺しに来たのだから。そんな、後回しでいいことを冷静に考えている間にも、河内はにじり寄ってくる。不確かな足取りで、しかし確実に、俺達のほうへと。
周防を解放するか? いや駄目だ。そうすれば俺と藤堂は助かるが、絶対に周防は包丁を取り戻そうとするし、どちらかが死ぬのが目に見えている。かといって、このままでいいはずもない。
せめてもう一人――こんなことなら、堂島さんと合流してから動くべきだったか。いや、それでは間に合わなかった。
どうすればいい。どうすれば……
「何をやってる!」
耳朶を打つ怒号と闇を裂く一条の光が差したのは、いよいよもう目の前にまで河内が迫り、今にも包丁を振り下ろそうとしていたときだった。
見れば、その声に河内は呆然と立ち尽くしていた。その視線の先、
「ったく、遅いですよ、堂島さん」
これほどまでに頼りになる姿もないだろう、他でもない堂島勤その人が、懐中電灯を手に、路地に飛び込んできたところだった。
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