第一章 第四節 第四話

 日付は今にも変わろうとしている。瀬津は未だ戻らず、窓の外の月を眺める後ろでは、藤堂がソファの上で寝息を立てていた。


 何にしても瀬津に話は通そうと彼女の帰りを待ち続け、しかし一向に戻ってこないことに業を煮やして藤堂に電話をかけてもらった。しかしそれにも返事はなく、気づけばこんな時間になってしまった。


 異常事態、といってもいいだろう。依頼の都合で一日二日事務所を空けることはあっても、連絡が一切ないというのはこれまでなかった。そういうときは必ず、瀬津から言伝を預かったのであろう綾姉さんがやってきて、いるかいないか分からない俺宛に書き置きを残していた。留守電機能付きの電話を買えと、何度ぼやきを聞いたことか。


 今回は藤堂がいる。何かあるなら彼女に連絡が入るだろうし、そもそも折返しがないのも瀬津らしくない。


 ……行くか。藤堂には悪いが、俺一人のほうがここは都合がいい。


 頭の中で瀬津の姿を強く形作り、同時に体を空気に溶かし込むようなイメージを思い浮かべる。障りがなければ、それで瀬津のもとへ辿り着ける――はずだった。


 どれだけはっきりと思い描こうとも、俺の体はいつまで経っても事務所に留まったままで、何一つ変化の兆しすらない。


 考えられるとすれば、瀬津が神社のような結界の中にいるか、それかすでに知覚できる状態にないか。前者はともかく、後者についてはあまり考えたくない。


 どうする。瀬津の行き先が分からない以上、闇雲にあちこちを飛び回っても仕方がない。だが、何もしないという選択肢はすでに捨てている。考えろ、今できることを。


 ――相模圭。彼は今回、正式に依頼を持ってきた。その内容は不明ながら、現状で考えるなら周防みずはか瀬津湊に関するものではないだろうか。


 出かける前、瀬津は『今回の依頼』と言った。河内からの依頼のことだろうと思っていたが、それが相模圭からのものだとしたら?


 瀬津は昨日、河内に会いに行っている。河内からの依頼は、結局のところ『自分を助けろ』であって『犯人を見つけろ』ではない。


 一年に一人ずつ、八月三十一日に呪い殺されているというのなら、その日に呪いを跳ね返す用意をすればいい。そうではなく、もし人為的な、要するに単なる殺人だとすれば、もっと簡単だ。その日は一日、誰とも合わず、誰にも行き先を告げず身を隠すだけだ。あるいは、殺人だと分かっているのなら、警察に頼る手もある。よくよく考えれば、河内の依頼は、始めから完了していたも同然だ。


 相模由布子からの依頼は周防を止めろというもの。これも込みで解決するなら、やはり周防本人をどうにかする必要がある。なら、瀬津の行き先はやはり、あの廃神社近くの一軒家だろうか。


 試してみるか。前回は瀬津がいたから難なく動くことができたが、今回は果たして……覚えている限りの風景をしっかりと頭に浮かべると、思いの外早く、視界が蜃気楼のように歪んだ。







 景色の輪郭が鮮明になるに連れ、俺の心には「何故」という純粋な疑問が広がった。


 ここは、あの一軒家ではない。あそこはもっと開けた場所だった。


 瀬津湊がいた洋館でもない。様相が違いすぎる。


 ここは――廃神社だ。崩れ落ちた社殿、朽ちかけた鳥居、やけに新しい賽銭箱、俺を出迎えたのはそんな、よく知らないままに見慣れたものだった。


「……相模! お前が呼んだのか?」


 前回ここに飛べたのは、おそらく相模由布子が俺を呼んだからだったのだろう。納得できないところは多々あるが、そういうことにして折り合いをつけた。なら、今回もそうなのかと呼びかけてみるも、返ってくるのは夜らしい静寂ばかり。周防の怨嗟が一日で綺麗さっぱり消え去っていたように、相模の気配すら残っていない。


 成仏したのか? いや、周防があいつの心残りなら、まだそれは解決していない。なら何処に……いやそれ以前に、彼女がいないのなら俺はどうやって入り込めた?


 何か変わったところはないかと周囲をぐるりと見渡す。すると、それはすぐに見つけられた。


 石柵が、一部壊れていた。両手を広げたくらいの幅だけだが、徹底的に叩き壊され、その残骸すら何処かに持ち去られていた。なるほど、これで結界が壊れ、中に飛べたわけだ。なら、相模もそれで抜け出したのか?


 ……違う。あいつは自分を地縛霊だと言っていたし、実際そうだったと思う。なら、自発的に外に出ることはできない。


 自然と、瀬津湊の名前が浮かんだ。霊のコレクターなら、地縛霊だろうがなんだろうが、収集するすべを持ち合わせているのかもしれない。


 ――いや、よそう。何の証拠もありはしないし、今はとにかく瀬津を見つけることに専念すべきだ。幸い、ここからならそう距離はない。


 森を抜け、記憶に従い進む。月明かりを頼らずとも道の様相は昼間のように明らかで、見える限りで何かしらの異変はない。程なくして、例の家が見えてきた。


 玄関は閉まっているようだが、俺には関係ない。扉を潜り抜け中に入ると、明かりは灯されておらず外よりも深い暗闇が広がっていた。誰もいないのだろうか。何処か埃っぽさと湿っぽさを感じながら、まずは瀬津が監禁されていた部屋を目指した。


 部屋に変わったところはなく、すぐさまに見るべきものはないと踵を返す。そのままいくつか部屋を回ったが、奇妙な点はなかった。


 最後に残った、リビングから一番遠い部屋以外には。


 飾り気のない扉越しに、薄っすらとだが重苦しいものを感じる。初めて廃神社を訪れたときに感じたような害意悪意の類ではなく、もっと別の――これは、なんだろうか。


 とりあえずは害はなさそうではある。今更躊躇っても始まらないと扉を抜けると、


「……なんだ、こりゃ」


 部屋の中は、物取りにでも入られたのかといった惨状だった。


 床に散らばるのは割れた茶碗だろうか。その中に入っていたのであろう粥が、カーペットの上に吐瀉物のようにこびりついている。いくらか時間が経っているようで、簡単には取れそうにない。


 真っ白な布が、部屋の隅に広がっている。いや、広がっているというのはいささか丁寧すぎる。掛けていたものを力任せに引っ張って叩きつけたようだ。ハンガーは明後日の方向に転がっていて、よく見れば布の所々が破れていた。


 他にも、力任せに振り落としたのだろう、蝋がこびりついた五徳や、釘が無造作に突き刺さった藁人形が一体。それで、この部屋の主が誰か分かった。


 元の姿を知らないとはいえ、ベッドやデスクだけは荒れていない。そこが少し不気味ではある。


 その、飾り気のないデスクの上。大きめの手帳が、まるで読めといわんばかりに開きっぱなしで置かれていた。


 日記帳だった。閉じ忘れただけか、それともその余裕すらなかったのか。やけに震え乱れた筆跡で書かれたそれは、どうやら今日書かれたものらしい。人の記録を覗き見る罪悪感がいくらかよぎったが、何かの足しになればと読んでみることにした。

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