第一章 第四節 第二話

 結果からいうと、音を聞かないようにするという試みは上手くいった。とりあえずそういうふうに強く念じれば、すぐに無音の世界に入り込むことができた。


 俺のような死霊は、生前のように耳から音を聞いているわけではない。いや、感覚的には耳から聞いているのと同じなのだが、それはあくまで生きていたときの記憶から来るものであって、実際には音を『感じている』に近い……のだと思う。


 鼓膜という器官を持たない以上、その感覚を遮断するのは、思っていたほど難しくはなかった。死んでからそれなりの年数が経ち、俺がこの体の扱いに慣れただけなのかもしれないが。


「で、なんで俺は手伝っちゃ駄目なんだ?」


 相模圭はもう帰った。何の用件だったのかは当然知らないが、小一時間は話していたようだし、テーブルの上には書類やメモ用紙が置かれてあるところを見るに、依頼は引き受けたのだろう。


 メモは裏返されていて、何かが書かれているらしい程度にしか分からかない。だがそれがあるということは、つまりそういうことでもある。


「さて……何から話そうか」


 手には入れ直したコーヒー。湯気とともに立ち上る香りが、瀬津の頭を整理させているようだった。


 やがて、それを一つ慎重に口に運ぶと、


「家族の問題、というわけではないんだ」


 そう、殊更ゆっくりと切り出した。


「むしろ、あれと、曲がりなりにも血を分けた姉妹なのだと考えると、おぞましくて仕方がない」


 こともなげに、見ようによってはそよ風に感じるささやかな爽快さを味わうように言ってのけた瀬津は、しかしコーヒーカップを握りしめる手には僅かな震えが現れていた。


「君を遠ざけようとしたのは、あれが収集家だからなんだ」


「収集家?」


 その単語と俺に、一体何の関係があるのか。


「……まさか、霊をコレクションしてるなんていうんじゃないだろうな」


 言っておいて何だが、霊を収集して何の意味があというのか。シャーマン、あるいはネクロマンサーにでもなろうというのだろうか。いや、それらにしたって、常に霊を侍らせているわけではないだろうし――


「そのまさかだよ。それも、君のように成仏せずに現世に留まっている霊ばかりをね。私が知る限りで、十や二十は下らない」


 マジかよ。いやまあ、収集家を俺に近づけたくないとなれば、実際のところそれ以外の可能性はほとんどなかったわけだが。それでも、霊の収集家というのはよく分からない。


 第一、


「だけど、あの女の周りに霊なんて影も形もなかったぞ」


 それどころか気配の一つすら感じられなかった。洋館そのものやあの女自身に対しては寒気は覚えたものの、それ以外には何もなかった。


「見せびらかすタイプじゃないのさ。大事なものは、誰にも見られない場所に隠しているんだ」


 何かしらの手段でそこらに留まったままの死霊を捕らえ、何処かに連れて行って閉じ込める――具体的な方法についてはともかく、それが実行できるということは、あの瀬津湊という女は相応に力を持った人間ということになる。


 俺が瀬津のところに留まっているのは、俺の自由意志以外の何ものでもない。出て行こうと思えばいつでもできる。瀬津も、強制はしないしそもそもできないと言っていた。その選択肢を不特定多数の霊から奪うとなると、並大抵ではない。


 だが――


「そんなことしてもろくなことにならんだろ」


 たとえ捕らえた霊の全てが、俺のように恨みつらみを持っていないものばかりだとしても、強制的に閉じ込められたとなればまた話が違う。しかもその数が二桁ともなれば、何が起きてもおかしくないのではないだろうか。


 瀬津は何も答えず、もう一口――いや、カップに残ったコーヒーを一気に煽った。


「私から話せるのはここまでだ」


「は?」


 そこまで話しておいて、何を。


「とにかく、君は二度とあれと会わないほうがいい。今回の依頼、相模由布子さんからのものも含めて、私が片付けておくよ」


 立ち上がり、裏返したメモをデイバッグに突っ込むと、瀬津は手をひらひらとさせながら、鍵もかけずに事務所を出た。


 ……事情は、一応聞けはした。したのだが、どうにも――クソ、収まりが悪い。


 などと腹の中で悪態をついたところで、置いていかれた以上どうしようもない。当然、相手が瀬津なら神社とかでもない限りはすぐに駆けつけられるが、相手が瀬津だからこそすぐにバレるのは目に見えている。


 ……どうにも苛々する。中途半端に情報がある分、結末が気になってしょうがないのか。俺にそんな探究心はなかったはずなのだが。瀬津のところで嗜好が変わったとでもいうのか。死んだ後に? 馬鹿馬鹿しい。


 日はまだ高いが、散歩でもするか。そう決めた瞬間だった。


 また、事務所のインターフォンが鳴った。


 どうにも今日はタイミングが徹底的に悪いらしい。連日来客があるという状況も珍しい。はてさて、次はどんな人間がやってきたのやらと、またドアから顔だけを覗かせて見てみると、


「わ、びっくりした……」


「藤堂?」


 そこにいたのは、まさかの藤堂だった。


「どうした?」


 藤堂がここに来る理由なんて思い当たらないし、やはり依頼だろうか。ならば結局タイミングが悪いことに違いはない。


「瀬津なら出掛けてるぞ」


 瀬津には、無事に戻ってきた翌日、瀬津が河内に会いに行く前に引き合わせた。謝礼として渡そうとした金を藤堂は受け取らず、何かあったら無料で手を貸すというところに落ち着いた。早速、その機会が訪れた――


「うん、知ってる」


 というわけではないようだ。


「御影、アンタ何したの?」


「は? 俺?」


 いや、何したも何も、何もしていないんだが。というか何もさせてもらえなくなった。


「瀬津さんから、アンタを見張っててくれって頼まれたんだけど」


 ……ああ、なるほど。お目付け役というわけか。そんなものを用意しなくてもよさそうなものを。念には念を、ということか。


 しかし、他に心当たりがないからといって、よりによって藤堂を選ぶなんて。いや、俺も人のことをいえた義理ではないが、可能性として考慮するだけなのと実際に動くのとでは随分違う。


「とりあえず、入るか?」


「鍵は?」


「開いてる」


 鍵をかけなかったのはそういうわけか。おそらく、相模圭が去ったあとにでも連絡を入れたのだろう。


 というかそんな根回しをするくらいなら、ちゃんと最後まで事情を説明しろよ。

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