第四節.そして誰も・三
第一章 第四節 第一話
事務所で一人、留守番にならない留守番をするのは初めてだった。
瀬津湊。それがあの女の名前らしい。瀬津の実姉で、十年ほど前から行方不明。俺が聞かされたのは、それだけだ。
何故、普段なら何事をものらりくらりとやり過ごすあの涼香があそこまで露骨に感情をあらわにしたのかは、結局聞けていない。というか、聞ける空気ではなかった。ただ、瀬津、そして堂島さんにとって、愉快な話題でないことは確からしい。あまりにも空気が重々しすぎて、逃げるように一人事務所に飛んで帰った。
それはさておき、瀬津が例の家で見つけたのは、白装束、一本歯の下駄、足に蝋がこびりついた五徳と蝋燭、赤い半月の櫛に首から下げられる楕円の鏡、そして一体の藁人形、長い釘、金槌だったという。丑の刻参りセットといった具合か。あとは日記帳がいくつかあったらしい。相模の件を伝えると、瀬津はただ「分かった」と答えただけだった。
問題はそのあと。瀬津は唐突に、「君はこの件から手を引け」と言い出し、一方的に同行を禁止した。当然抗議はしたが聞き入れられることはなく、さりとて黙ってついていくわけにもいかず。結局昨日は、河内に会いに行った瀬津を見送って、あとはほぼ一日中暇を持て余していた。
河内から何を聞いたのかも、瀬津は俺に教えてくれなかった。今日に至っては、どこに行くのかすら聞かされていないまま正午を回った。いよいよ本格的に、今回の依頼から俺を排斥するつもりのようだ。
原因はまず間違いなく瀬津の姉、湊だろう。家族の問題に他人を関わらせたくないだけか、それともそれ以外の何かがあるのか、あるいはその両方か。
いっそ、気は乗らないがまた藤堂に頼んで情報を集めるか? などと暗澹とした中で考えながら、誰にも聞かれないため息を天に向かってついた、そのときだった。
ガラス戸の向こうに人影が見えたかと思うと、インターフォンが呼び出しを告げた。
タイミングが悪い。どこに行ったか分からないとはいえ、俺なら今すぐに瀬津を呼ぶことはできる。しかし、それでも瀬津が戻ってくるまでにはどうしても時間がかかってしまう。そうなれば、当然相手は帰るだろう。
せめてどんな奴が来たのかだけでも見ておくか。そう思い、扉の向こうに顔だけ出すと――
相模圭が、いかにも沈んだ表情で立ち尽くしていた。
何故こいつが? 名刺を見たのだし、この場所に辿り着くのは難しくはないとしても、一体どの面下げてやってきたというのか。
そうこうしている内に、彼の手はドアノブに伸び、思いの外の慎重さでひねられた。無論、事務所は施錠されていて開くことはなかったが。
ため息一つ。思い詰めた様子のまま、開かない扉を呆然と見ている。
……もしかして、周防に何かあったのだろうか。もしそうだとしても瀬津を頼る理由にはならないとは思うが。あるいは、やはり野放しにはできないと、改めて瀬津を拘束しに来たのか。
「おや、貴方は」
少し考え込んでいたせいで、階下から近づく瀬津に気づかなかった。
単独行動が増えた点を除けば、瀬津の様子は普段と変わりない。あの日の形相が嘘のように、今もまたあの笑みで彼を出迎えていた。
「どうされました? 相模圭さん」
「名乗った記憶はないんだけど」
瀬津に向けた目に険はあるようだったが、その口調に覇気はなかった。改めて観察してみると、目元はより落ち窪み、無精髭も見て取れる。口唇は乾いてひび割れ、頬には影が浮かんでいた。見るからに二日前より疲弊、いや、もはや衰弱していた。
「当方は探偵でございますれば、そのくらいは」
よくもそこまで嘘をスラスラと。まあ今に始まったことではないのだが。
「それで、ご用件は? またぞろ監禁するとおっしゃるのでしたら、流石に当方としても黙ってしてやられるわけには参りませんが」
そう言う割には特に身構えたりする様子はない。もっとも、今この男を前にして警戒する必要があるのかと問われると、ないと言い切っていいだろう。
案の定、彼は体ごと瀬津に向き直り、すぐさま深々と頭を下げてこう口にした。
「……貴女に、頼みたいことがある」
コーヒーを淹れ、相模圭と自分の前にそれぞれ置いた瀬津は、自分はソファに座ることなく、
「正式なご依頼という認識でよろしいでしょうか?」
いつもどおりに微笑みながら、あまりにも平静だった。
数日前に自分に害をなした人間を前にしているとは到底思えない。それが瀬津らしさと言えなくもないが、それはそれとして違和感が拭えない。
相模圭と周防は、瀬津湊とつながりがある。そのことを知った、いや、瀬津湊の存在を知った瞬間の瀬津を思えば、彼に噛み付いてもおかしくはないのではなかろうか。
「構わない」
こちらもどういう風の吹き回しなのか。一時的にとはいえ監禁した相手に平然と会いに来たばかりか、仕事を頼んでくるその厚顔さを称えるべきか、余程切羽詰まっていて形振り構っていられないのかと憐れむべきか。
いずれにせよ、内容を聞いてみないことには始まらない。問題は、瀬津が俺の同席を認めるかどうかだが……
「では、少々お待ちください」
そう言って自室のほうに足を向け、一瞬だけこちらに目を向けた。
ついてこい、ということなのだろう。何を言われるか分かり切っているし正直従いたくはないが、無視したら無視したで面倒なことになるのは間違いないわけで。
……グダグダしていても仕方がないか。
ドアをくぐった先は、安っぽいシングルベッドとサイドテーブル、小さなワードローブだけの、生活感が薄い空間。就寝と着替え以外の機能は全て事務所に置かれているせいもあるが、とにかくこの場所は無味無臭だ。
その中心あたり、ベッドの脇に立った瀬津は、こちらに振り返るなり、
「悪いんだけど恭司君。しばらくここで耳を塞いでいてくれるかな」
予想していたとおりのことを、隣に聞こえないよう小声で口にした。
「幽霊に耳塞げって言われてもな」
「意識すれば、何も聞こえないようにするくらいはできるんじゃないかな?」
それは、試したことはないが多分可能だろう。だが――
「ならせめて事情を説明しろ。それくらいはいいだろ」
一方的に雇っておいて、都合が悪くなると手を出すなという。確かに瀬津が雇い主である以上、俺がどの依頼に関わって、どの依頼に関わるべきでないか決める権利はある。だが、何故を聞かされずに黙って従えといわれて唯々諾々と聞き入れるほど、俺は利口ではない。
「家族の問題ってんなら、それ以上は聞かないが」
「……そうだね、君には、話しておくべきだった。申し訳ない」
――そう素直に頭を下げられると、それはそれで調子が狂う。ともあれ、話してもらえるというのならそれに越したことはないが。
「だけどとりあえず、彼の話を聞いてきてもいいかな。終わったら、必ず話そう」
「分かった」
答えると、一つ小さな笑み――あまりらしくない弱々しいものだった――を残して、瀬津は事務所へと戻っていった。
さて、約束した以上は会話を盗み聞きするわけにはいかない。聞こえないようにできるかどうかは分からないが、試してみて無理なら少し出かけることにしようか。
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