第一章 第三節 第七話

 神社を出ると、丁度見覚えのある白いセダンが瀬津の車の隣に止まるところだった。体感ではまだ二時間も経っていないと思うが、慌ただしく降りてきた堂島さんを見るに、随分と急いだのだろう。


 瀬津の姿は見えない。まだあの一軒家にいるのだろうか。自分からここに呼びつけておいて遅れるのはどうかと思うが……そう思っていると、暗闇の向こう、月明かりに照らされながら悠然とこちらに近づいてくる人影が見えた。


「涼香!」


 見つけるなり、堂島さんは早足でそちらに向かった。心なしか、瀬津の表情も柔らかくなったようだ。この暗がりでは、堂島さんには見えていないだろうが。


「無事みたいだな」


 普段のいがみ合う姿が嘘のような、安堵に力が抜けた声は本当にらしくない。思えばあの怒鳴り声にしても、堂島さんにしてはあまりにも感情的だった。


「その様子じゃ、恭司君は隠し切れなかったようだね」


 ……そうだった。瀬津には堂島さんに監禁の件を話したことを伝えていなかった。まあ怒られることはないだろうが、小言はもらうかも知れない。


 いや、それ以前に、今ここに俺がいる時点で問題か。あの二人の監視を放り出して何をしているのかと。


「そんなに私が心配だったのかな?」


 いつの間にか、瀬津の表情はいつもどおり、あの厭味ったらしい笑みに戻っていた。挑発するようにわざとらしく声を間延びさせて、堂島さんを煽っているようだった。


 いつもなら、これで売り言葉に買い言葉の応酬が始まる。往々にして、二人の諍いは瀬津が火蓋を切って落としていた。


 だが、


「当たり前だろ」


 堂島さんは、変わらず穏やかに、真っ直ぐそう返した。


「――そうかい。それはすまなかった」


 予想もしていなかったのだろう。瀬津も瀬津でらしからぬ素直さで答え、そっと目を逸らし、どこか熱っぽい息を静かについた。


 どうにも二人揃って見ているこちらの調子が狂うというか、俺の知らない誰かのように思えて何とも言えない。てっきり昔からああいう感じなのかと思っていたが、もしかしたら俺が瀬津と会う前は違ったのだろうか。


「おや?」


 と、二人からは少し離れたところにいたはずだが、目敏く俺を見つけたらしい。この辺りには街灯もないから、目が暗闇に慣れて見やすかったのかも知れない。


「恭司君、もう戻ったのかい?」


 一瞬意外そうに小首を傾げてみせた瀬津だったが、すぐさま元の薄ら笑いを浮かべ、あっという間に俺の知る瀬津涼香に戻っていた。


 もう、か。


 別に叱責のつもりはないのだろうが、俺が仕事を放棄してきたのは事実だ。ばつの悪さは当然ある。


「悪い」


「いいさ。何かあったんだろう?」


 それは、まあそうだ。俺の姿も声も認識できない堂島さんや、助けを求めてきた相模には申し訳ないが、このことは先に話しておいたほうがいい気がした。


「ヤバい女がいて、そいつにバレたから逃げてきた」


 相対したのはほんの僅かな時間だったが、あの女を一言で表すなら、それに尽きる。俺の主観でしかないとしても。


 今回の件に無関係ということもないだろう。女は周防達が何をしているのか知っていた。そういう意味でも、情報の共有は必要だ。


「ヤバい女?」


「なんというか、蛇みたいな、というか」


 その表現が果たして正しいのか。いや、そもそも先に外見的特徴を伝えるべきではないか。そう理性では分かっていても、口をついて出てきたのはその一言だった。


 すると、瀬津は、一瞬だけ眉間を寄せたかと思うと、目を細めて、


「――蛇みたいな女、ね」


 そう、一音ずつ噛みしめるように漏らした。流れてきた分厚く重々しい雲が、月明かりを遮った。


「蛇……?」


 それまで蚊帳の外だった堂島さんも、その言葉を聞いて何故か身構え、鋭さを増した目で瀬津を見ている。


 明らかにただ事ではない。一体、蛇に何があるというのか。こういうとき、生きているなら固唾を呑むことになっていたのだろうか。今の心境は、間違いなくそうだ。


「恭司君」


 瀬津が俺を呼ぶ声が、いつもより低い気がした。


「その女、もしかして白髪じゃなかったかな?」


「え……あ、ああ」


 蛇というのが人を形容するに適したものかどうかはともかく、そう表現される人間はそれなりにいるだろう。その中から、瀬津はいきなりそう言い当てた。


「背は? 高かったんじゃないかな?」


「そうだな、堂島さんほどはないにしても」


 多分一七〇以上はあっただろう。それはそれとして、またしても瀬津の言及は正鵠を射た。もはやその口ぶりは問いではなく、確認しているだけのようだった。


 何より、決定的なのは、


「彼女の右目は見たかい?」


 ――その言葉だった。


 普通、そんなことは聞かないだろう。聞くとしても右目だけに絞ったりはしない。間違いなく確信している。


 俺が出会った女が、瀬津が知る誰かであると。


「黒い、石か何かみたいだった」


 そう、告げた途端。




 声を殺しながらも凄絶な、般若の面のような笑みが瀬津の顔に刻み込まれた。




「……瀬津?」


 目の前の彼女は、本当に俺の雇い主なのだろうか。よく似た顔の全くの別人なのではないか。それとも、俺がまだ彼女のことを知らなすぎるだけなのか。


 堂島さんを見ると、その表情に何処か嫌悪感めいたものを覚えたのか、険しい顔つきが一層歪んでいた。長い付き合いの人間でも、彼女の変貌は受け入れがたいもののようだ。


 ……いや、違う。改めてよく見てみれば、堂島さんの目線は瀬津に向いていなかった。なまじ体格の差があるから見下ろしているように見えただけで、堂島さんはその更に下、足元を睨みつけていた。そこから何か湧き上がってこないよう見張っているかのように。


 なんだ? あの女に何があるっていうんだ? 二人して、まさか期せずして何かの仇を見つけたとでも?


 そんなことを考えていると、とうとう瀬津は陰鬱に喉を鳴らし始めた。その顔は、あの女に似ているような気がして――




「ようやく見つけた――姉さん」




 何処からともなく、夜鷹が悲鳴のような鳴き声を上げた。




 相模圭が事務所を訪ねてきたのは、それから二日後のことだった。

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