第一章 第三節 第六話・前

 ただでさえ胡乱な体の感覚が、より一層薄い。ろくに行き先を決めていなかったからか、蜃気楼のように歪んだ景色は一向に形を持とうとせず、いくつもの風景が入り混じっている。


 初めてこの移動方法を試したときに、一度迷い込んだことがある。まだ生身の人間としての意識が抜け切れていなかった頃、瀬津にそそのかされてやってみたときのことだ。あのときは、どこに行くかのイメージが固まらない内に移動してしまって、危うくそのまま俺自身が雲散霧消するところだった。


 幸いなことに、意識は鮮明だ。これなら今からでも――そう思った矢先に、目の前で青白い光の粒子のようなものが、何かを形作り始めた。


 なんだ、これは。こんなものは今まで経験したことがない。何が起ころうとしているのかと構えていると――




 突如、抵抗する間もなく光のほうへ引っ張られ、視界が真っ白に染まったかと思えば、また次の瞬間には見覚えのある光景が広がっていた。




 四方に広がる木々。朽ち果てた木造建築と妙に真新しい賽銭箱。振り返れば腐りかけた鳥居。間違いない、ここはあの廃神社だ。


 ……ありえない。確かに俺は、条件さえ整えば文字どおり世界中を飛び回れる。しかし、それが神社や仏閣、神殿といったものとなれば話は別。そういった聖域、神域に立ち入るには門をくぐらなければならない。いくら廃墟であっても、結界の体が成されている以上例外はないはずだ。


 つまり、ここはあの神社ではない。ひどくよく似た、全く別の何処か。だが、そんな場所に心当たりなどあるわけがなかった。


 この際誰でもいい、話ができる人間はいないかと周囲をぐるりと見回し――彼女を見つけた。


「アンタは……」


 ところどころ擦り切れたセーラー服。暗く沈むように俯いていて、肩下まで伸びた髪や、そもそも彼女が小柄ということもあって相貌ははっきりとは分からない。


 だから確信があるわけではない。だが、俺もどうしてかは分からないが、彼女が誰なのかは分かる気がした。


「相模由布子か?」


 名を呼んだ瞬間、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の問いに間違いはなかったとはっきりした。多少やつれ、汚れてはいるが、その顔は写真で見た相模そのものだ。何かに怯えるような、あるいは自己に自信がないような頼りなさで、しかしそれでも彼女は、俺を真っ直ぐ見返してくる。


「ここは何処なんだ?」


 彼女なら何か知っているだろう。彼女が何か言いたいことがあるのは違いないだろうが、まずはこちらの疑問に答えてもらわなければ。


 そうして、やがて聞こえてきた相模の声は、あまりにもか細く、風にすら吹き消されそうな弱々しさだった。


「私が死んだ神社。貴方も、一度来たでしょう?」


 それは、確かに風景自体はそのとおりなのだが。


「あり得ない。神社には結界があるんだ、そうホイホイ入れるわけがないだろ」


 何度か、母親の実家である神社に飛べるか試したことがあるが、結局一度も成功することなく終わった。正確には、神社の側になら飛ぶことはできたのだが、その境内となるとどうしても無理だったのだ。だというのに、俺には縁もゆかりもないこの場所に一足飛びで立ち入れる道理はない。


 ……どうやら、相模はそのあたりのことがよく分かっていないらしく、表情は変わらないが首を傾げるばかりだ。これはどうも埒が明きそうにない。


 まあ、いいか。取り立てて危険があるような状況には思えないし、少なくとも彼女からは、敵意のようなものは見えない。会話ができているということは、理性は充分にあるということでもあるわけだし。


 というか。


「俺が来たことを知ってるってことは、あのときもいたのか?」


 今度は首を縦に振る相模。それならそれで、どうしてあのときに接触を図らなかったのだろうか。


「あのときは、まだみずはちゃんの想いが強すぎて、貴方に声が届かなかった。だけど今なら」


「そういえば、どうしても聞き取れないのがあったが、あれ、アンタだったのか」


 言われてみれば、同じ廃神社とは思えないほどに、今のこの場所は静かだ。鼓膜をしつこく引っ掻くような周防の怨嗟は一切なく、大凡廃墟らしい寂寞さばかりが広がっている。


 ……僅か一日でこうも様変わりするとは、一体どうなっているんだ? そのことを問いただそうとした、そのときだった。


「お願い、探偵さん」


 相模は深々と頭を下げ、心の奥底から絞り出すように、


「みずはちゃんを、止めてください」


 ――そう、思いもよらなかったことを懇願された。










 当初、俺達の前提にあったのは、自殺した相模由布子が何らかの理由でかつてのクラスメイトや担任、先輩を殺して回っているという話だった。


 調べてみれば、最初の犠牲者と思われていた周防みずは。彼女は実は生きていて、効果の程はともかく五人分の藁人形に釘を打ち付けていた。いや、冷静に考えれば、周防が本当に丑の刻参りの実行者かどうかははっきりしていなかったが、


「周防が犯人で間違いないんだな?」


 それはすでに問いではなく確認であり、相模は迷うことなく首肯した。


 相模の話をまとめるとこうだ。


 周防は、奇跡的に一命を取り留めた翌年から、毎年八月三十一日の未明、白装束をまとって五徳を逆さに被り、五徳の足に火を灯した蝋燭を指して神社にやってきていた。足元は一本歯の下駄、口には赤い櫛を咥え、藁人形に五寸釘を打ち続けた。積もり積もって押し固められた怨恨の念でもって叩きつけるように。一人一人、名前と害意を唸り叫びながら、繰り返し、繰り返し。


 毎回毎回、息も絶え絶えで今にも吐きそうなほどに疲弊するまで、儀式を続けたという。


「止めようとしたけど、みずはちゃんには届かなかった……このまま、見てることしかできないのかなって諦めたとき、貴方達が来たの」


 俺が死霊であることには、すぐに気づいたという。初めは何者か判断しかねたようだが、俺達の様子を見ている内に、そういう筋の人間なのではと思ったようだ。


「何で俺のことを探偵だと?」


「お兄ちゃんが、女の人の名刺を見てそう言ってたから」


 あの場で瀬津の名刺を検めたのは二人。一人は勿論周防で、もう一人は、


「圭って男のことか」


「うん。相模圭」


 少しずつ、見えてきたような気がする。


 かつて自殺した相模の、恐らくはそれなり以上に親しい友人である周防が、相模の兄の手を借りながらかつての知人達を呪い殺している――となれば、根底にあるのは。

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