第一章 第三節 第五話

 暗闇の中、車体を揺らしながら田舎道をひた走る。助手席では息苦しそうに眉をひそめた周防みずはが、浅い寝息を立てていた。


 その隣でハンドルを握る男の表情もまた冴えない。噛み潰した苦虫がいつまでも口の中に残り続けているかのような、いいようのない気持ち悪さを押し殺し続けているようだ。


 ついには、彼はブレーキに足をかけ、よろよろと軽バンを停めた。街灯すらない一本道。ライトを消せばあっという間に闇に飲まれてしまうその場所で、男はハンドルに額を乗せ、淀みを吐き出した。


「……着いたの?」


 一度むず痒そうに口元を動かした周防が、半目を開けて男を見ている。ハッとなった男は、顔を上げるとすぐさま周防のほうを見た。


「ごめん、起こした?」


「半分起きてたから大丈夫」


 目元を軽く擦って軽く倒していた座席ごと体を起こし、彼女は軽く周辺を見渡した。


「……何処?」


 周囲を照らすものは車のヘッドライト以外には何もなく、閉じていた分目は暗闇に慣れていたとしても、彼女の目に映る景色は濃紺の背景の所々に黒いシミを落としたものばかりのようだった。


「あと十五分くらいすれば着くから」


 男の言葉にまだ虚ろさが残る目のまま小さく頷く周防。昼間よりも目のくまや血色の悪さは改善されているが、それでも健常とはいい難い。だというのに、


「大丈夫? 圭さん」


 彼女は自分のことよりも、男――圭のことを心配していた。


「え、何が?」


「辛そう」


 虚を突かれた、といったところだろう。バツが悪そうに目を背け頭を垂れた男に、周防は、


「……あと一人で、終わるから」


 そう気怠げに、何処か虚しげに、まるで独り言のように漏らした。


 己の膝を見下ろしたまま、男は何かを言おうとしているようだったが、喉の奥に引っかかってうまく出てこないようだ。やがて意を決したのか、それでも躊躇いがちに口を半分だけ開き、


 ――結局彼は何も言わなかった。


「行こう、先生が待ってる」


 結局それきり、二人が口を利くことはなかった。










 街までもう少しというところで、軽バンは木々に囲まれた脇道に逸れ、その先にあるいささか大げさな建物に辿り着いた。


 ヘッドライトに照らされたのは不気味に黒ずんだ石レンガ。連なるアーチ窓は一箇所を除いて全て明かりが落とされ、しかし窓枠そのものが怪しげな淡い光を放っているようでもある。その錯覚は、枠に細やかに彫り込まれたアラベスクともフェアアイルともつかぬ奇妙な模様が、光を乱反射して引き起こされたものだった。


 ライトを消してエンジンを止めて車を降りた二人は、迷うことなく洋館の入り口に立った。


 インターホンを鳴らし、三秒。圭が扉を軽く押すと、ほとんど抵抗もなく開き、その奥、薄暗闇が広がるエントランスへと足を踏み入れる。そのまま暫く待つと――


「やあ。来るのは明日と思っていたよ」


 嫌に明るいランタンを手に下げた、右目をミディアムヘアの白髪で隠した長身の女が、長丈の黒い白衣を揺らして現れた。


 彼女を見るなり、深々と頭を下げる周防。


「遅くにごめんなさい、先生」


 まだ弱々しさの残った、何処か硬さのある声。その隣で、圭は黙したまま、これ見よがしに不満、いや不愉快そうに顔をしかめていた。


「気にしなくていいさ。もう五人目だろう? よくやっていると思うが、どうしたって疲労は貯まるものだ――おや?」


 ……女の目線が、周防でも圭でもないところに向けられた。


「そちらは、お客さんかな?」


「え?」


 その目線を辿るようにして首を巡らせた周防と圭。当然だが、彼等の瞳に映るのはランタンに照らされたエントランスばかりで、『お客さん』と呼ばれるような人物は誰もいない……いないはずだ。


 ――これは、まさか。


「あの、先生?」


「なぁるほど。ただついてきただけか」


 女が一歩、足を踏み出す。そのつま先は、最早誤魔化しようがないほどに、俺のほうを向いていた。


 逃げなければ。そう思いながら、せめて女の顔を覚えようと目を凝らし――


「それとも」




 ――どういうわけか。足がすくむという今の俺にはあり得ない感覚に襲われた。




 もう一歩。女は間違いなく、俺を見ている。


 蛇が獲物をなぶり、確実に追い詰めるように、全身が締め上げられて体が動かせない。足掻こうと足掻こうと意識すればするほど、むしろ余計に身動きが取れなくなる。


 まずい、本当にまずい。何がまずいのか俺自身もよく分かっていないが、とにかくこの状況がひどく危ういということだけはどうしようもなく理解できてしまい――


「誰かさんの小間使い、かな?」


 ――視界が、女の顔で覆い尽くされた。


 ランタンの橙を帯びた光に染まった顔、口唇はまるで鮮血で化粧したかのようで、三日月に裂けたその内側には気が遠くなるほどに果のない暗闇が広がり、その瞳もまた、有象無象を飲み込むようにどす黒く染まっていた。


 女が、髪を僅かにかき上げた。そこから垣間見えたのは、やはり……いや、左目以上に黒く、暗く、なのに不条理にも輝いて見える、白目のない歪な何かだった。


 その奥の奥に、異様な揺らめきを見せる何かが見えた気がして――


「先生?」


 そう、周防の声が聞こえた瞬間だった。急に体の自由が戻ったことに気づいた俺は、どこでもいいと強く願い、逃げ出した。


 逃げ去るその直前、圭と呼ばれた男と、目が合った気がした。

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