幕間・後

「涼香が容疑者ってどういうこと?」


 空調が効いた応接室にいながら、堂島の背筋には新しい汗が一気に吹き出た。ソファに沈めた身体は自然と強張り、口の中が乾いて痛い。


「落ち着いてください。あくまでそうなる可能性があるってだけです」


 だが震え上がっていてはこの仕事は務まらぬと、努めて平静にそう返す。


 丹波明彦についての検死結果はまだ出ていないが、溺死であろうというのが現場での見解である。丹波と涼香の間に繋がりは見当たらず、故に、第一発見者でしかない彼女が疑われるような理由など、本来ならあろうはずがなかった。


「落ち着いてるわよ。だからちゃんと説明して」


 確かに穏やかな声色ではあったが、その目の奥に揺らめく火がちらつくのが見えた気がして、今一度堂島は居住まいを正した。


 どこまで話すべきか。立場上、手持ちの情報を全て詳らかにするのは問題がある。かといって下手に隠し立てをすれば、まだただの火でしかないものに燃料を注ぐことになりかねない。彼は気が小さいわけではなくむしろ十全に据わった肝の持ち主であったが、こと藤崎が相手とあっては、僅かでも逆鱗に触れかねない要素は排除したかった。


「……他言無用でお願いします」


 結局、堂島は手札を全て開くことを選んだ。


「涼香の話では、被害者は桟橋から飛び込んだってことだったんですが、見つかったのは池の中心近くだったんです」


 単純に桟橋から入水しただけではそうはなるまい。相応の距離がある上に、流れがあるわけでもないのだから。


「池の底を転がったとか?」


「それだけなら構造上なくはないでしょう。俺もそう考えましたし」


 あるいは、飛び込んだ後に泳いだという可能性もある。いずれにせよ、ただそれだけで涼香を容疑者候補とするのは性急に過ぎる。


「問題は、被害者の両手両足が、水草で縛られてた点です」


「は?」


 堂島が最初に話を聞きに行ったときには、まだ発見には至っていなかった。桟橋から落ちたという証言のもと、その周辺を重点的に探していたからだ。日も明けやらぬ濁った水中というのも、発見の遅れに繋がった。結局丹波が見つかったのは涼香の事務所を後にして現場に戻ったあとで、専門家に頼らずとも手遅れなのは明らかだった。


「絡まって解けないとかそういうんじゃなくて?」


 藤崎の問いに頷く。


「潜水士の話では、手首と足首に食い込むくらいしっかりと結ばれていたそうで」


 最終的には証拠として状況を写真に収めた上で潜水士が水草を切断、すでに事切れていた丹波と共に引き上げられた。


「俺も写真で確認しましたが、あれを自然がやったってのは無理があると」


 回収された水草は、いずれもがしっかりと固結びされていた。一箇所だけならば、それでも確率は低いとはいえあり得たとしても、全てが同じ状態となれば人為的に成されたとしか考えられない。


 藤崎の気怠い嘆息が、足元に沈んだ。


「普通はそう考えるわよね。それで、通報者の涼香が疑われてるってわけか」


 通報の内容から想定された状況との乖離に、旧知であるはずの堂島でさえ一瞬涼香を疑った。彼女がそのようなことをするはずがないと分かっていても、そもそもの不自然さ、涼香が夜深い時間に散歩をしていたというらしくなさは、疑念を浮かばせるには充分だった。


「でもそれ、そもそも本当に涼香が目撃したの?」


 それは、堂島も辿り着いた当然の疑問だった。


 彼等の知る瀬津涼香という人間は、夜を好まない。寝付けないからという理由だけで夜闇の元を闊歩するなど、彼女の気質に相反する。


 そうと知りながらも、堂島が彼女の主張をあえて追求しなかったのは、


「俺は違うと考えてます。自分じゃ通報できない誰かが、涼香を使ったんでしょう」


 思いつく人間は一人いる。彼が本当の目撃者なのだとしたら、涼香を頼るのも当然のことだとも理解できる。聞くところによれば、彼は夜な夜な出歩くこともままあるようで、それならば全てに納得がいく説明がつけられる。


「そうだとしたら話が変わってきます。それで、詳しく聞こうと思ってたんですが」


 肝心の涼香が捕まらないのでは話にならない。このまま行けば、ひとまずの容疑者に見立てられて捜査が始まるだろう。


 当然、堂島は彼女の無実を確信しているし、調べれば何の関係もないことはすぐに明らかになるはずだ。だが、もしもということもある。


 涼香が犯人であるという可能性ではない。涼香が犯人に仕立て上げられる可能性だ。


「最後に連絡がついたときに、被害者に関係のある依頼を受けたらしいことを言っていました。となるとこの事件……」


「何かしら超常的なものが関わってるかもってことね」


 以前はそんなものは一切信じていなかった。物事には必ず筋道があると考えていた。涼香にその常識を覆されるまでは。今でも、堂島はオカルトを全て信じているわけではない。だが、こと涼香が動いているとなれば話は別だった。


 しかし、彼自身はそうであっても彼が所属する組織は違う。警察はあくまで現実的かつ理性的でなければならない。彼が信じるその理想像は、今の涼香にとってあまりに都合が悪い。


 通報とは明らかに異なる被害者の状況と、行方をくらました通報者。疑念を呼び込むには充分だ。


「悪いんだけど、私もあの子の居場所は知らないわ。今日はずっと叔母さんのとこにいたし。だけど……」


 言うと、藤崎は傍らのハンドバッグに手を伸ばした。中から取り出されたのは使い古したキーケースで、更にそこから一本を取り外す。


「これ、涼香の事務所の鍵。行けば何か分かると思う。私が行くよりアンタがやったほうが色々と心得てるでしょ」


 その鍵を受け取り、頭を下げた。


「助かります」


「知ってたんだ? 私がスペア持ってるの」


「身寄りのないあいつが頼るとしたら藤崎先輩だけかと」


 両親を亡くし、唯一の肉親である姉は行方知れず。そんな涼香にとって、幼い頃からの知己である藤崎の存在は、決して小さいものではない。


 そして、藤崎にとっても、涼香は憎からぬ相手である。


「それに、先輩なら強引にでもスペアを預かるでしょうから」


「分かってるじゃない」


 今日初めて、堂島は藤崎が本来持つ朗らかさを垣間見た気がした。


 さて、と、鍵をなくさぬよう慎重に仕舞い腰を上げる。今から行けば完全に日が暮れる前には探偵事務所に辿り着ける。中の間取りは把握しているから、どこを探せばいいのかの見当もすぐにつく。そう算段をつけつつ藤崎にもう一度一礼しようとしたときだった。


「ところでさ」


 いつの間にか、藤崎の指の間には細巻きのタバコが挟まっていた。


「堂島が言った『誰か』って、もしかして恭司?」


「……ご存知だったんですか」


 まあね、というやや気の抜けた答えが、マッチのツンとした香りと共に広がる。それらは余韻を残すことなく、すぐさまタバコの煙と匂いにかき消された。


「てか、それ私の台詞」


 考えてみれば、自分と彼の接点を藤崎は知らないのだし、知っていたとしてもその疑問は当然だ。自分のような普通の人間がまさか彼のことを把握しているなど、露ほどにも思うまい。


 とはいえそれは、堂島からしてみれば藤崎も同じだった。


「アンタもあの子に説明された口?」


「ええ」


 思い返してみれば、あの日も八月三十一日で、あの事件の翌年だった。刑事課に配属となり、特に理由もなくあの場所に立ち寄り、手を合わせた。涼香と久方ぶりに再会したのはそのときだった。






 ――刑事になれたんだね。それはめでたい。それで、君は何をしているのかな?――




 ――去年ここで殺された高校生がいただろ。ふと思い出してな――




 ――ああ、恭司君のことか……なるほど、君が最初に来た警官だったんだね――




 ――お前、何でそのこと――




 ――今聞いたんだよ。他でもない彼本人に――






 堂島も、藤崎も、涼香や照のように見えるわけでもなければ聞こえるわけでもない。ただ、そうでなければ説明がつかないものを、お互い経験していた。


 何故そうなったのかは分からない。ただ、十七歳で生を終えた御影恭司という少年は、死して後、涼香とともにあるということだけは、間違いないようだった。

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