第一章 第一節 第三話・後

「あとはそのまま、退去手続きをして、引っ越しの準備はお姉ちゃんやお父さんがやって……で、そのお礼じゃないけど、今はこうしてお店の手伝いしてる」


 一通り話して疲れたのか、それともそのときのことを思い出したからか、藤堂は伏し目がちになって、もう一度ため息を漏らした。


「なんというか、難儀だったな」


 最初はいなかったというなら、霊感持ちの藤堂があの部屋を何故借りたのかという点は解決される。だが、その分新たな疑問が生じてしまった。


「ところで、そいつは知り合いだったのか?」


 一つは、藤堂曰く通りすがりのその霊が、少々、いやかなり直接的に、藤堂に対して悪意を持っていたであろう点だ。藤堂がいうとおりただの通りすがりなのだとしたら、「死ね」だなんて言葉に納得のいく説明がつけられない。


 勿論、常識外の存在であるところの霊――それも、藤堂が感じたものを鑑みれば怨霊の類に対して、そんなものを求めるのもおかしな話ではあるが。


「知らない人だったと思う。というか、知ってたとしても誰かの恨み買った覚えないし」


 それもそうか。俺が知る限りで藤堂ほど無害な人間はいないし、藤堂を知る誰もがそう答えるだろう。勿論、本人の預かり知らぬところで、予期せず他人の障害となっていた可能性がないわけではないが……


「だから、正直何かの勘違いなんじゃないかなって」


 生きた人間や、霊でも話が通じるやつなら、「勘違いでしたごめんなさい」で済む話だ。しかし、怨霊にまで至った相手ではそれも難しい。真相がどうあれ、さっさと逃げ出して近づこうともしなかった藤堂の判断は正しい。


「じゃあ、そいつの特徴とか覚えてないか? 例えば、髪が長かったとか」


 藤堂の証言から、すでに『周防みずはが化けて出た』という可能性はほぼ否定されている。もし藤堂が見たのが周防みずはなら、そもそも最初に部屋に入った時点で藤堂が気づいていたはずだ。


「髪は短かった。私と同じくらいだったかな。あとは……ごめん、これっていうのは、ちょっと思い出せない」


「怪我とかあったか? 足が折れてたとか、頭が割れてたとか」


「なかったと思うけど……うん、なかった」


 霊体の多くは、死んだときの姿を取るという。となれば、藤堂が見た霊は果たして誰なのか。ワンピース、ショートボブ、女性――母数がどの程度か見当もつかないが。


 と、ある意味当たり前の質問が、藤堂の口から飛び出した。


「でも、なんで怪我?」


 ……まあ、隠すようなことでもないし、別にいいか。


「あの部屋、六年前に飛び降りがあったんだよ」


「……マジ?」


「マジ」


 気づく要素がなかったのだろうから仕方がないとは思うが、何かしら曰く付きの物件に足を踏み入れてしまったことに、いくらか思うところがあるようだ。少しばかり顔を青くして、ぷつりと糸が切れた人形のように、再びうつむいた。


「やっぱ、ちゃんと聞いておくべきだったかなあ……」


 霊感があることで生きている人間からは好奇の目を向けられ、死んだ人間からは霊障という実害を被る藤堂のことだ、きっとそういったものに自ら近づかぬよう、細心の注意を払ってきたに違いない。であれば、確かに入居前に確認を怠るべきではなかったのだろう。


「ただまあ、話を聞く限りじゃ、お前が見たのは別人だろうけどな」


「いや、別人だとしても見ちゃったことに変わりはないって」


 それはそうだ。


「まあいいや、今度から気をつけよ……」


 と、改めて藤堂が一息ついた瞬間を待っていたかのように、店の電話が無機質な電子音を奏でた。それには特に驚いた様子もなくすぐさま受話器に手を伸ばした藤堂は、もうすっかり血の気を取り戻していた。


「お電話ありがとうございます、無名堂でございます」


 ……いや、お前もその名を使うのか。こういう屋号って、普通は公的書類に残っているだろうから、知ろうと思えばすぐに分かりそうなものを。


「……ああ、いえ――はい、いらっしゃいますが――かしこまりました……え、ああ、はい、お伝えしておきます――はい、失礼いたします」


 そんなことを考えている間に、随分とあっさり話は終わったようだ。しかし、恐らくは相手が名乗った瞬間、藤堂の眉間に僅かなシワが寄ったのはどういうわけだろうか。


 いや、なんとなく予想はついているが。


「御影、瀬津さんから伝言。話が終わったら例のマンションに集合だって」


 やはり相手は瀬津か。しかし、何もこちらの返事を待たずに切らなくてもいいだろうに。しかも、なんだって今度は店の電話に。


「了解。悪かったな、手間かけさせて」


 お呼びがかかったのなら、もう移動したほうがいいだろう。先に到着する自信はあるが、万が一待たせては何を言われるか分かったものではない。


「じゃあ、行くわ」


「うん――会えてよかった」


 まるで最後の別れかのような言葉とともに見せた笑顔が何処か寂しげに見えたのは、俺の思い上がりだろうか。手をひらひらと揺らす藤堂に、いくらか後ろ髪を引かれる思いを感じつつ背を向け、


「あ……」


 ふと、あと一つ、聞きたいことを思い出した。


「ところで藤堂」


「何?」


「この店の名前って、結局何なんだ?」


 どうでもいいといえばどうでもいい。分からないままなら、それはそれで構わない。ただ、取れる小骨はさっさと取ってしまいたかっただけだ。


 だから、一瞬虚を突かれたような表情をした藤堂の口から、あっさりと答えが得られたのは、素直にありがたかった。


書肆しょし藤堂。まあ、書肆って古い言い方だし、今じゃ無名堂で通ってるから、みんな無名堂って呼ぶけどね」

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