第一章 第一節 第四話・前

 繁華街までモノレールで二駅。駅までは徒歩五分程度で、エントランスを出てすぐの幹線道路にはバス停。総階数八階でオートロックや宅配ボックスは当然のように完備。学生身分で借りるにはいささか贅沢に感じるのは、大学に行ったことがないからか、それとも一人暮らしの経験がないが故の思い違いか。


 さてどのベランダが件の部屋だろうかと手持ち無沙汰に見上げていると、くすんだ黒い車体を揺らしながら、古ぼけたハッチバックが乗り込んできた。誰何するまでもなく、瀬津の車だ。


 表からは目立たないところに車を止めた瀬津に続いて、エントランスを抜けてエレベーターへ。藤堂の話を要点だけ伝え終える頃には、七階に着いていた。


「つまり、この部屋には何もいないけど何かある、と」


「何かあるかどうかは知らないけどな」


 そして今。俺達は七〇六号室の前にいる。六年前、周防みずはが転落し、先月には藤堂が恐怖から逃げ出した、あの部屋の扉の前に。


 ……普通、といっていいのかは疑問だが、所謂心理的瑕疵物件というものは、多かれ少なかれ『そういう空気』がある。急に寒気を覚えた、何か嫌な予感がする、急に肩が重くなった、藤堂の例でいうとにおいがした――そういったよく聞く違和感は、決して思い違いではない。だが、


「確かに、これは何もいなさそうだね。やれやれ、鶏も卵も関係ないとは」


 人によっては近づくだけで吐き気を催すことすらあるその悪寒が、ここにはそれが一切なかった。


 こんな仕事をしているのだから当然だが、瀬津もその手の感覚は鋭い。これまでの人生で四人、特異な感覚を持つ人間と出会ってきたが、その中でも彼女は、敏感さは群を抜いている。当然、この不自然なまでの平穏さを、瀬津も感じ取っているに違いない。


「……先に入ろうか? 一応」


 それでも万が一ということもある。瀬津に害かあってからでは意味はないし、こういうときに俺が先んじるのはいつものこと。もし中に何かいるとしても、最悪の事態は避けられる。


「いや、大丈夫さ。行こう」


 そう言って、瀬津はさっさと鍵を開けて中に入ってしまった。まあここまで露骨に静かなら、いちいち警戒するのも阿呆らしいか。


 玄関を抜けると、すぐ左にはトイレへと通じる扉。右には洗面所と風呂場が見え、正面には見るからに広々としたダイニングキッチン。キッチンは対面式で、調理台の使い勝手はよさそうだ。今は開け放たれている三枚引き戸の向こうも、寝室として使うなら過不足ないだろう。


 事前に見ていた見取り図と何ら違いのない、いってしまえば普通の1DKだ。二人くらいなら余裕で、一人では持て余す程度の広さは、やはり実入りがいいとはいえない学生には不相応な住居に思えてならない。


 藤堂にせよ、周防みずはにせよ、一体どこから家賃を捻出していたのやら。心霊騒動よりも、そちらのほうがよほど気になる。


 他に引っかかるといえば、壁紙くらいのものか。天井や窓際は普通の白い壁なのに、ダイニングと寝室の一面ずつだけ赤茶のレンガ調だ。目地とレンガの凹凸感もそれなりに再現されているようで、芸が細かいというべきか、手が込んでいるというべきか。どちらも隣室との境界側の壁で、丁度向かい合わせになっていた。


「やっぱ何もないな」


 とはいえただそれだけのこと。あえて何かいうほどのものでもないし、単にそういうデザインというだけの話。アクセントとしては、まあ悪くはないのではないだろうか。


 瀬津を見れば、彼女も壁紙が気になったのか、窓辺に立って寝室側のそれを眺めていた。いや、というよりも、その更に一点――窓側の隅をじっと見上げているようだった。


「どうした?」


 隣に並んで見てみても、やはりそこには壁があるだけだ。だというのに瀬津は、どこかつまらなそうにしながらも、視線を動かそうとはしなかった。


 俺にも見えない何かが、瀬津には見えているというのだろうか。そう思ってよく目を凝らしてみると――


「……穴?」


 窓際の上のほう、手を伸ばせば届くところにあるレンガ柄の角と目地の柄の丁度境目に、穴が空いていた。言われなければ気づけない、いや、言われたとしても、瞬き一つで見失ってしまうだろう。


「……虫食いか何かか?」


 だが、所詮はそれだけのことと、俺はそう感じた。あの壁紙が貼られてどれだけの時間が経っているのかは知らないが、歳月とともに傷みくらいは出ても仕方ないというものだ。


 だが、瀬津はそうは思わなかったらしい。


「藤堂さんは、頻繁に視線を感じた、と言っていたんだね?」


「らしいな」


 言うや否や、やおら手を伸ばした瀬津は、器用にもその穴に爪を引っ掛け――




 一瞬の躊躇いもなく、一息に引き千切った。

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