第一章 第二節 第二話・後
十五分ほどで風呂から上がってようやく普段のしっかりとした格好で瀬津が出てくる頃には、また番組の内容は変わっていた。内容なんて当然のように記憶に残らず、背景音代わりにぼうっと過ごしていると、ソファでだらりとしていた瀬津が、藪から棒に読んでいた文庫にしおりを挟んだ。
「来客だ」
ノックどころか足音すら聞こえてこない。それでも、文庫を片付けがてら近づいてきてパソコンの音を消した瀬津は、そのまま出入り口の前に向かった。それを見て――特に必要はないのだが――俺も居住まいを正す。
程なくして、ドアにはめ込まれたすりガラス越しに、薄っすらと人影のようなものが見えると共に、控えめなノックが二度鳴った。
「お入りください」
どういうわけか瀬津には、客が近づいてくると分かるらしい。最初は驚いてどういうわけかと問い質したりもしたが、本人にも「ただなんとなく」としか言いようがないらしく、今ではすっかり慣れた。
「し、失礼します」
ドアを開けて現れた女性からは、ぱっと見ただけで派手という印象を受けた。
ファッションのことは分からないので身につけているものがなんというのかは知らないが、よく言えば夏らしく涼し気な、直接的に言えば露出が高い薄手の服でまとめている。健康的に日焼けした中肉中背の、恐らく二十代前半、いっていても半ばの彼女は、しかしそれとは対照的に、ウェーブがかかったセミロングの髪は所々跳ね、遠目から見ても傷みが酷い。髪色にしても、元は明るめに染めていたのであろうが、くすみが目立っていた。不自然なまでに血色がいいように見える顔も、目からは生気がほとんど感じられない。
「あの、ここで、えっと……奇妙な体験の相談を受けてくれるって、聞いたんですけど」
加えて、装いに反して、立ち振る舞いは妙にオドオドとしている。何に対してかはまずは置いておくとして、明らかに怯えている様子だ。
「はい。心霊妖怪都市伝説、オカルトのお悩みなら、当方がお受けいたします」
もっとも、瀬津にとってはそんなことは些事も些事。相手がどんな態度であろうが、依頼内容のほうが重要なのだろう。その報酬で生活しているのだから当然ではあるが。
「さあ、立ち話も何ですから、あちらに掛けてお待ちください。まずはお飲み物をご用意しましょう」
促された女性は、まるで幽鬼のような足取りで中に入ると、よろめきながらソファに座り込み、強張る体を抱きかかえるように背を丸めた。
さして珍しくはない。扱う案件が案件なだけに、彼女のようにやつれた姿で事務所に現れる客はむしろ多い。ただ、
「ひ――!」
カップを取り出しただけの些細な音にすら、肩を戦慄かせて引きつった声を上げるほどとなると話は別だ。ここまで追い詰められた人間は、今まで見たことがない。見れば瀬津ですら、何事かと彼女のほうを横目で見ていた。
「……ごめんなさい」
「構いませんよ」
こういう客の相手も慣れたもので、俺や堂島さんみたいに見知った相手しかいない場では絶対に見せない、随分と柔らかい笑みを浮かべて返す瀬津。なまじ顔がいい分、それだけでそれなりに絵になるのが、なんというか、腹が立つ。
「どうぞ、ジャスミンティーです」
そうこうしている内に戻ってきた瀬津が一層慎重にティーカップを置くと、女性は小刻みに震える両手で抱え込むように持ち上げ、一口嚥下した。
「改めまして。瀬津涼香と申します」
そうして彼女が一息つくのを待って腰を下ろした瀬津が差し出した名刺は、白地に事務所と瀬津の名前、そしてここの固定電話の番号と瀬津の携帯の番号だけが無機質に印刷されているだけだ。それ以外には住所も何もなく、お得意の売り文句も書かれてはいない。
「
その空白の多さを彼女、河内は特に気にした様子はなかった。というよりも、気にする余裕もないというべきか。単に不思議に思わなかっただけかもしれないが。
「それで、どういったご相談でしょうか?」
途端、河内の肩が再びびくりと揺れ、そのまま全身が震え始めるまでそう時間はかからなかった。痙攣する身体を無理に抑え込もうとしてか、それとも襲い来る寒気から身を守ろうとしてか、彼女の腕は自らを掻き抱いた。
生肌を突き破らんばかりの強さで食い込む指先と、それでも収まらない身震い。化粧の下の口唇は、果たして血の気を残しているだろうか。俯いた横顔は髪に隠されて、何も窺い知ることはできない。
「……助けて」
聞こえてきたのは、ひどくか細く、今にも消え入りそうな声だった。喉の隙間をどうにか通して、ようやく絞り出したような一言だった。
しかしそれだけでは、やはり何も分からない。瀬津を伺い見れば、彼女を見据えたまま沈黙を保っていた。推察するにも妄想を巡らすにも、流石にそれだけではどうしようもないのだろう。ただただ、依頼人の続く言葉を、静かに待っているようだ。
河内は浅い呼吸を繰り返すばかりで、なかなか続く言葉が出てこない――いや、そうではなかった。声を上げようとしても、先程よりも一際ひどくなった怖気のせいで、上手く口が動かないのだ。横髪の隙間から辛うじて見えた口は、必死に何かを訴えようと動いていた。
どれだけ待っただろうか。実際は一分にも満たなかったであろう時間が、誰も何も言わないことで数倍にも膨れ上がり――生唾を飲み込んだ彼女が、突如堰を切ったように悲鳴を上げた。
「わたし、このままじゃ殺される――!」
あまりにも、直接的で物々しい物言い。さしもの瀬津も笑みを引っ込めざるを得なかった様子で、俺は俺でただ呆気にとられるばかりだった。
我に返って耳をそばだてれば、死にたくない、死にたくないと、カチカチと歯を鳴らしながら繰り返すばかり。顔を伏せてそれまでよりもなお全身は縮み上がり、まともに会話できるような状態でないことは明らかだ。
どうしたものか。いや、俺にはどうしようもないのだがと瀬津の様子を伺うと、どういうわけか彼女は足を思い切り振り上げ――
ローファーの踵をテーブルに勢いよく叩きつけた。
何をしたのか、俺ですら理解が追いつかなかったのだから、見ていなかった河内は尚更だったろう。その彼女が恐恐と顔を上げたその目の前には、ソファから立ち上がっていつもどおり余所行きの表情に戻った瀬津の姿があるばかりで、それだけで何事かを推し量るのは難しい。
「お茶のおかわりは如何ですか?」
「え……あ、はい、頂きます」
そう答えているが、眼の前のカップにはまだ半分以上、中身が残っていることに気づいていなかったようだ。再びキッチンへと戻った瀬津の背から目を離し、もう一度頭を垂れた河内が、小さく「あ」と漏らすのが聞こえた。
やがて、彼女がその中身を飲み干す頃には、キッチンから戻った瀬津が、両手に中身の入ったカップを、一つは河内に、もう一つは自分の前に置いていた。
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