第一章 第二節 第一話

 朝っぱらから、空気が重い。瀬津の寝起きが悪いのはいつものことだが、今日は輪をかけてひどい上、何より、日も明けやらぬ内に現れた客が客だけに、清々しさは顔を出せずにいるようだ。


 普段ならこんな状況、いてもいなくても大して変わらない俺がこの場に留まる理由はない。だが今回ばかりはそうもいかず、テーブル越しに睨み合う二人を、手持ち無沙汰に眺めていた。


 何せ、瀬津の寝不足も、不意の来客も、全ては俺が原因なのだ。ならば話くらいは聞いておくべきだろう。ただ……


「なんであんな時間に公園にいたのかって聞いてんだよ。涼香、お前、そんなに馬鹿だったか?」


「馬鹿とはひどい言い草だね。それに、私がいつ何処にいようとも、君には関係のない話じゃあないかな、堂島巡査部長」


 この重苦しさは、決して俺だけが原因というわけではない。


 何だってこの二人は、顔を合わせる度にこうなのか。元々目つきが鋭い堂島さんは眉間のシワが一層深まっていよいよもって筋者じみているし、瀬津にしても、まだ眠いのだろうということを差し引いても、完全に目が据わっている。口元こそいつものように笑ってはいるものの、とてもではないが友好的なものと呼べる代物ではなかった。


「池に人が落ちたなんて通報受けりゃ、詳しい話を聞くのは当たり前だろうが」


 猫背で座っていてもちっとも小さく見えない恰幅のよさは、それだけで充分威圧的だ。加えて、これ見よがしドスを効かせた声色は、誰も彼もが萎縮するに足る迫力がある。


 例外がいるとすれば、それこそ瀬津くらいのものだろう。彼女にはきっと、眼の前に座する鬼が、小動物か何かに見えているに違いない。


「やれやれ。だったらもう少しばかり紳士的にできないものかな。君のそれは、まるで殺人犯に相対するときのようじゃあないか」


 そういう瀬津の態度も人のことを言えるとは思えない。踏ん反り返って足と腕を組んだ姿だけみれば普段とそう変わらないものの、いくら知り合いとはいえ、歴とした刑事に詰問されてまともに取り合わないのだから、不遜そのものといってもいい。


 目撃した状況を聞けばウェブ百科事典の『公園』のページを見せられ、そういうことじゃないと返せばじゃあどういうことなんだと投げつけられ、挙句の果てには売り言葉に買い言葉。ついには、堂島さんは深く、そして大きく嘆息した。


 気持ちは分かる。俺が彼の立場なら、ため息どころでは済むまい。まったく、彼の辛抱強さには敬意を表して然るべきだ。


 などと考えていると、瀬津を睨んだまま、不意に、


「ったく……御影君、こいつの減らず口どうにかしてくれ」


 あろうことか俺を名指しした。


「自分よりも一回り近く年下の人間を頼るなんて、情けないことこの上ない。恭司君もそう思うだろう?」


「俺を巻き込むな」


 勘弁してくれ。この二人の仲裁なんてどれだけの報酬があっても請け負いたくないし知ったこっちゃない。


 ――ただ、今回ばかりは。


「瀬津。もういいだろ」


 彼も仕事で来ているのだから、こちらも相応の対応を取るべきだ。何をしに来たのか分かりきっているのに、いつまでも喧嘩腰では大人気なさ過ぎる。


 というかそもそも、先に仕掛けたのは瀬津なのだから、非があるのは彼女のほうだろう。どうにかしろというのは、至極真っ当な意見だと思う。


「まあそうだね。少し遊びすぎた」


 それが分かっているのなら、何故さっさと問いに答えてやらないのか。時間は無駄になるわ雰囲気は険悪になるわで、得なことなどなにもないだろうに。


 もっとも、この件で瀬津が言えることなど、本当は何一つないのだが。当然だ、目撃したのは俺であって、彼女はその時間、眠っていたのだから。


「単なる散歩だよ。そしたら偶然、誰かが池に落ちるのを見てしまってね」


 ただ、俺が見たというのは少々都合が悪い。堂島さんが来たことで結果的には杞憂に終わったものの、瀬津を目撃者に仕立て上げたほうが、何かと面倒がないのは変わりなかった。


「お前が? あんな時間に?」


 俺が瀬津を叩き起こして一報を入れさせ、公園まで車を運転させたのは、確か二時過ぎだったか。彼女を知る人間にしてみれば、あまりにもあり得ない時間帯であるといえなくもない。俺もそこには不自然さを禁じ得ないが、


「私だって、毎日決まって〇時前に寝てるわけじゃあないよ。たまにはそういう日だってある」


 そう言ってしまえばそれまで、とは瀬津の言。確かにそのとおりではあるのだが、その雑さが通じるかどうか。


「……そういうことにしといてやるよ」


 案の定、堂島さんは納得していないようだった。それでも追求しようとしなかったのは、単純に面倒になっただけか、それとも他に何か理由があるのか。何にせよ、おおよそのことは瀬津には伝えてあるから、そう簡単にはボロが出ることはないはずだ。瀬津が呆けて変なことを言わない限りは。


「桟橋から落ちたって話だったが、そりゃ確かか?」


「さあ?」


 ……おい。


「何せ暗かったからね。ただ、あの池に飛び込むとしたら桟橋くらいしかない、って話さ」


 それは確かにそうだが、そこは断言してほしかった。そりゃ、瀬津よりも俺のほうが夜目が利くから、俺に見えたものが必ずしも彼女に見えるとは限らないのは事実ではあるが。


「そりゃそうだが……じゃあ、桟橋から落ちるところをはっきり見たわけじゃないんだな?」


「そういうことになるね」


 そう言うが、果たしてそれ以外に、あの池に飛び込む方法があるだろうか。俺が実際に目撃したという点を無視するとしても、他の可能性にはすぐには思い当たらない。


 というか、ボートを持ち出しでもしない限り、物理的に不可能だ。そんなこと、当然分かっていると思うのだが。


「わざわざそんなことを聞いてくるってことは……」


 と、瀬津を見やれば、いかにもといった具合に顎に手をやって物思いに沈む素振りを見せた。挙げ句小首までかしげるものだから、余計に芝居っぽさが強い。


 というか、こういうときは大抵、瀬津は次に言う言葉をもう決めている。つまりそれは、本当に単なる小芝居にすぎないのだった。


「未だに見つかっていないか、よっぽど予想外のところで見つかった、ってことかい?」


 果たして、すぐさまに発せられた彼女の言葉に、堂島さんの眉尻がピクリと痙攣した。


「……何でそう思った?」


 殊更低い声で投げられた疑問は、俺も同じくするところだ。単なる確認のためだけのようにも聞こえる問い一つで、少々飛躍しすぎなのではないかとも思う。


 もっとも、彼の反応を見る限り、確かめたかっただけということはなさそうではあるが。


「ちょっと妄想してみただけさ。もし、私が幻を見たのだと疑っているのだとしたら、君は『本当に誰か落ちたのか』と尋ねただろう。だけど君が聞いたのは、本当に桟橋から落ちたのか、だった。ならばそういうことなのではと、ね」


 そう言われれば、確かにそんな気はする。しかし所詮は気がするだけで、やはりこじつけがすぎる印象は拭えない。妄想とは言い得て妙だ。


 流石に何か別の理由があるだろう――そのとき。


「仮にそうだとしてだ。お前に言う必要はないだろ」


 ……まあ、それはそうだ。瀬津は、いや俺はただの目撃者であり、それ以外に繋がる糸など一本たりともないのだから。元来、俺達が知り得る情報は、警察がマスコミに提供した事実だけで、それ以上を要求できる立場ではない。


「また話を聞きに来るかもしれん。そんときはもう少し手っ取り早く済むといいんだがな」


 立ち上がった彼からは、もう何も聞き出せまい。いや、思えばはっきりとしたことは何一つ分からないままではあるのだが、瀬津は軽く肩をすくめただけだった。


「それはそのときの気分によるね。あとは勤君、君の態度次第でもあるかな」


 そんなやり取りと、瀬津の言葉についに漏れた舌打ち。去り際に置いていった余韻を、愉快そうに静かに笑う瀬津が吹き払った。

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