第一章 第一節 第五話

 マンションから件の依頼主である不動産屋までは、そう遠くはなかった。というよりも、ほとんど目と鼻の先に等しく、歩きでも五分もかからなかっただろう。


 店の中はそれほど賑わっている様子もなく、平和そのものだ。引っ越しシーズンでもないこの時期、不動産屋は何処もこんなものなのかもしれない。


「瀬津と申します。迫田さんはいらっしゃいますか?」


 足を踏み入れた途端に話しかけてきた女性に瀬津が問うと、女性はすぐさま踵を返して店の奥に消え、見覚えのある男と連れ立って出てきた。瀬津の姿を認めるなり会釈をした迫田は、そのまま流れるように店の奥、パーテーションで区切られたスペースへと、瀬津を促した。


 大きめの商談で使われる場所なのか、中にはゆったりとしたソファとしっかりとしたテーブルが、余裕をもって置かれていた。これで御大層な机が置かれていたら、ドラマでよく見る社長室だななどと詮無い感想が浮かぶ。


「まずはこちらをお返しいたします。ありがとうございました」


 ソファに腰を落ち着けた瀬津の手からは件の部屋の鍵。彼女が座るのを待って自分も腰を下ろした迫田は、音もなくテーブルに置かれたそれを見て、いささか驚いた様子だった。


 それはそうだろう。どういう経緯で瀬津に辿り着いたにせよ、半日と経たずして状況が変化するなど、予想だにしていなかったのだろうから。


「では、もう……?」


 もう、というよりも。迫田が期待していたであろうことは、何一つしていない。

「その前に一つ。あのお三方と周防みずはさん。彼女達以外に、あの部屋に入居された方はいらっしゃいましたか?」


 迫田から受け取ったのは過去四人の入居者の情報。いずれも女性で、周防みずは以外は全員が入居から半年未満で退去している。


 しかし、それ以外に入居者がいなかったとは、誰も一言たりとも言っていない。


「えっと、少々お待ちください」


 言って、迫田はテーブルの下からタブレットを取り出し、何やら操作を始めた。どうやら入居者情報はそこにまとめられているようで、覗き込んでみると、丁度あの部屋のデータが表示されていた。


「周防さんの次に、お一方、男性に契約いただいていたようです。当時はまだこちらに来ておりませんでしたから、どのような方かまでは分かりかねますが……」


「その方の退去理由は分かりますか?」


「申し訳ありません、それも分かりかねます。ただ、二年ほどは生活されていたようです」


 それだけでは男の退去理由を推し量るのは難しいか。たった二年ともいえるし、二年もともいえる。


 もっとも、それが分かったところで、一度出した結論を瀬津が覆すとも思えないが。


「単刀直入に申しますと、当方よりも警察に助力を求めたほうがよろしいかと存じます」


 瀬津の物言いは、とにかく淡々としたものだった。あの場所には霊と呼ばれるものは間違いなくいないこと、部屋から四台もの隠しカメラが見つかったこと、その際に壁紙を一部剥がしたこと。事実だけを事務的に、いや機械的に告げられて、迫田の顔色は見る見る内に悪くなった。


「盗撮……その、幽霊とかではなく……?」


「ここからは私の推測でしかありませんが、退去された方々は、何かのきっかけでカメラの存在を疑ったか、気づいてしまったのではないでしょうか。本来ならクレームを入れるところを、恐ろしくてできなかったのでは。あるいは、我々の預かり知らぬ全く別々の理由があったのかもしれませんが」


 真実はどうあれ、これが、事実を繋ぎ合わせて出来上がるもっともらしい結論といったところか。当然のごとく穴だらけで、追求すればいくらでも問題点は出てくるだろうが、それを俺達が解消してやる理由はない。


 俺自身の考えではなく、全て瀬津の考えだ。ただこの話、誰がどう聞いても引っかかることが一つある。


「しかし、先月退去された方は、確かに『見た』と」


「藤堂さんですね。勿論、それについてもご説明いたします」


 他の二人はいいとしても、藤堂だけはその推測が否定される。何せ、当の本人がすでに霊の存在を証言していたのだし、何より俺が、彼女から直接話を聞いているのだから。霊感云々の世間的な胡散臭さはさておき、そこは無視できない点だ。


 それを、瀬津は。


「実は、藤堂さんから直接お話を聞けまして。かいつまんでしまえば、『あれは思い違いだった』と」


 単なる真っ赤な嘘で、平然と塗り固めてしまった。


「おい瀬津、流石にそれは」


 大雑把すぎやしないかと、思わず声を出していた。が、瀬津はこちらに気を配るそぶりも見せず、俺なんていないものとして振る舞い続けた。


「思い違い、ですか」


 まあそれは別に構わない。俺だって、ここで瀬津から何か返されるなんて、そもそも思っていない。問題は、その筋書きでこの男が納得するかどうかだ。


「その日は疲れていて、帰ってきてすぐに眠ってしまったそうです。思うに、彼女が見たのは夢か、何かの見間違いではなかろうかと」


 上手く嘘をつくには、真実を織り交ぜるのがいいらしい。


 確かに、霊を見た日、疲れてすぐに眠ってしまったと藤堂は言っていた。その情報があれば、こじつけるのはそう難しいことではないだろう。


 もっとも、俺は瀬津に、『その日藤堂は疲れていた』なんてことは伝えていないのだが。


「幽霊の正体見たり枯れ尾花――得てして霊の目撃談というものは、そういうものなのです」


 ラップ音は家鳴りや水道管、ポルターガイストは振動やただの勘違い、人魂は何らかの化学反応や生物発光。光源が乏しければ、窓際に吊るした服を人影と見紛うこともあるだろう。


 全てがそういったもので片付くというわけではないが、大半は理性的かつ現実的に解決される――それが、瀬津の理屈である。


「……失礼に当たるかもしれませんが、瀬津さんがそれを仰るのですか?」


 迫田の言い分はもっともだ。仮にもオカルト事件を専門に扱うと標榜する人間が、一見オカルトを否定するように物を言うのは違和感がある。それが、それこそオカルト絡みと思って相談した依頼人とあれば、怪訝さを向けられても文句はいえまい。


「確かに当方は、心霊、妖怪、その他諸々の超自然的な物事のみを、ご依頼としてお受けしています。だからこそ」


 俺も、最初はそうだった。霊が見えてオカルト探偵なんてものを名乗っているというのに、この女は何を言っているのかと訝しんだ。


 だが、聞いてみれば何のことはない、見えるからこそ、生業にしているからこその、瀬津涼香の矜持がそこにあるだけだった。


「他の可能性が全て排除されない限り、当方は超常の介在であると断定しません。それが、当方の礼儀と、心得ております」


 現実として起こりうる事象を心霊現象だと安易に決めつけては、もはや詐欺師と同じ。それでは依頼人にも、そして、いずれ関わることになるかもしれない超常の存在にも失礼である。初めて彼女と会ったときから揺るぎない信念は、今日もやはり健在だった。

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