第一章 第一節 第二話
無名堂は、古書収集家の間ではそれなりに名の知れた古本屋だ。寂れ始めたアーケード商店街の端、木造の二階建ての店舗兼住宅は、以前何度か立ち寄ったときよりも、よりボロさが目立っているように見えた。
以前誰かに聞いた話では、『無名堂』という名前自体、客が勝手につけた愛称のようなもので、本来の屋号は今や誰にも分からないのだという。それを証明するかのように、掲げられた看板からは『堂』以外の文字は風化して失われている。
――古本屋藤堂か、藤堂古書店。文字の位置を考えると、どちらかといえば前者か。藤堂の実家なのだからそんなところだと思うが、あまりにも安直すぎるか。
藤堂があの部屋を退去してからの足取りは、当然だがすぐには分からなかった。受け取ったのは入居時の契約書で、そこに記載されていた当時の現住所、すなわちこの無名堂の住所以外に手がかりはなく、その手がかりにしても、そもそも藤堂の実家の場所を知っている俺にとっては真新しさはまるでなかった。
運がよかったのは、どうしたものかと考えあぐねているところに、瀬津のスマホに前金の振り込み通知が入ったことだ。そこからの彼女の行動は素早く、気づいたときにはもう、契約書に書かれた藤堂の携帯番号が画面に並び、発信ボタンのタップにも躊躇いはなかった。知らない番号であっただろうに、藤堂があっさりと通話に答えたのも幸運だった。
もっとも、藤堂にしてみれば不運であったといえよう。何処の誰ともしれない女に居場所を聞き出され、会って話を聞く約束を強引に取り付けさせられたのだから。了承は得たと瀬津は言っていたが、俺ならそんな口約束は無視して逃げ出している頃だ。
しかも、その当の本人はこの場にはいないときた。曰く、霊感少女で俺の知り合いならば、俺一人が行ったほうが向こうも話しやすいだろうとのことで、瀬津は瀬津で、件の神社にさっさと出掛けてしまった。多分、綾姉さんに斡旋の報酬を渡しに行ったのだろう。
……まあ、それ自体は別にどうでもいい。人手があるのなら分担したほうが効率はいいし、瀬津の考えに否やはない。今更使いを頼まれた程度で、面倒を覚えることはあっても、心細さだの不安だのに襲われるほど子供でもない。
ただ。
「――う、嘘……」
レジカウンター越しに再会した、昔と変わらないショートボブの幼顔。ありえないものを見るかのような、眼窩から飛び出さんばかりに見開かれた目と、半開きの口。一応は知り合いである藤堂にそんな表情を向けられては、多少は傷ついてしまうというものだ。
「よう、久しぶりだな」
「御影……? 本当に?」
そんな表情を浮かべてしまうわけも、そう言いたくなる気持ちも分かるが。
「他に誰がいるんだよ」
「で、でも……」
「ストップ」
なおも怯えたままの藤堂の前に、右手をかざして制する。旧交を温めに来たわけでもなし、これ以上問答を繰り返しても時間の無駄だ。さっさと片付けて瀬津と合流しよう。
「代理で来ただけだ。用が済んだら消えるから気にすんな」
「あ、ごめん! そういうつもりじゃ」
いささかぶっきらぼうに過ぎる物言いだったか、藤堂は一転して見るからに慌てた様子を見せた。かと思えば、すぐさま居住まいを正し軽く咳払うと、
「うん、久しぶり」
ようやく、彼女の顔が華やいだ。多少ぎこちなくとも、俺としてもこちらのほうが落ち着く。
「それで用って? 本でも探してるっていうの?」
……いやいや、誰に言っているんだか。
「まさか」
以前は色々と読み漁っていたものだが、今ではもう、本は一切読めなくなってしまった。面倒なことになるのが分かりきっているから、読もうともしなくなっている。本という形態を取っている物自体、目にしたのは久しぶりだ。
「少し前、瀬津探偵事務所ってとこから連絡入ったろ。そこで厄介になってるんだ」
「ああ、それかぁ……」
瀬津の名前を出した途端、藤堂はがっくりと項垂れて、小さいながらも重々しいため息をついた。なんというか、やはりそういう反応になるか。
「かなり強引だったから、どうしようかって思ったんだけど……」
だろうな。
あれはお世辞にも、アポイントメントなどと呼べるようなものではなかった。横で聞いていただけだったので藤堂がどう答えたのかは分からないが、粗悪な営業でもあそこまではないといえるほどの大雑把さだったのは間違いない。
少し聞きたいことがあるので、今から会いに行く。なので出かけないように――簡単にまとめると、瀬津の言葉はそんな具合だった。
「あれでよく待つ気になったな」
「居場所言っちゃったし、逃げても仕方ないかなって……それで、聞きたいことって何?」
そういえばそのあたりの事情すら、瀬津は完全に端折っていた。
必要ないと思っているのか、それとも単純に面倒なだけなのか、あいつにはよく説明不足なところがある。とはいえ、今回は流石に足りなすぎではないだろうか。
「あー……答えたくないんなら、別にいいんだが」
藤堂には藤堂の事情があるだろうし、元々無理をしてまで聞き出そうとは、俺は考えていない。瀬津には何か小言をもらうかもしれないが、藤堂が嫌だというのなら、それはそれで構わなかった。
「藤堂が前住んでたマンション、そこで何があったのか、教えてくれないか?」
霊感少女なんて噂が立ち、そのことで嫌な思いもしたであろう藤堂が、あえて霊が出る部屋を借りるとは思えない。本当に見える目を持っているのなら、何かあれば内見で気づいていたはずだ。そんなこいつが自ら近づいた以上、相応の理由があると考えるべきだ。その事情に他人が土足で踏み込んでいいのかは、俺には判断しかねる。
「……そういうことね」
案の定藤堂は、苦虫を噛み潰しながら無理矢理口角を上げるようにして言い淀んだ。よく見れば、さっきよりも若干、顔色が悪いようにも思える。
「やっぱ逃げとけばよかったかな……」
もしかすると瀬津は、そうさせないようにあえて目的を告げなかったのかもしれない――少なくとも、そんな妄想を抱いてしまう程度には、息苦しそうに見えた。
「ていうか、そっち系なの? 瀬津探偵事務所って」
「そっち系がどっち系なのかはよく分からんが、胡散臭い系ではあるな」
探偵事務所を名乗ってはいるが、その実、瀬津は浮気調査やペット探しは絶対に引き受けない。看板を出していないのも、そういった、曰く専門外の依頼が間違っても舞い込まないようにするためだ。
「心霊妖怪都市伝説、オカルトのお悩みは是非とも当方まで――らしいぞ」
わざとらしいまでの仰々しさで瀬津の謳い文句を諳んじてみせると、藤堂の口がムズムズと震えるのが見えた。
いや、笑ってもらって構わないんだが。
「何それ」
そう言われても困る。多少茶化してはあっても、嘘や冗談は言っていないのだから。
それがたとえどんなに胡乱な相手からの相談であろうとも、どれだけ曖昧模糊とした内容であろうとも、報酬かそれに準ずるものがある限り引き受ける。それが、瀬津探偵事務所である。今回の依頼にしても、いってしまえばただ『出る』という話だけで引き受けたことを考えると、節操がないといっても過言ではないだろう。
「まあ、御影にならいいかな」
そういった藤堂は、言葉を選ぶように二度、三度と口を開きかけては閉じ、やがて訥々と話し始めた。
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