第一章 第一節 第一話・前

「それで、その六年前の飛び降りがあった部屋で、三人の方が、半年かそこらで退去してまして。皆さん口を揃えて、『早くあの部屋から離れたい』と」


 いささか目立つ腹をした、不動産屋の営業を名乗った男が如何にも沈痛そうに言い終え、しかし瀬津涼香すずかは、その長過ぎる髪をかきあげただけだった。


 飾り気というものを放棄した鈍色の事務机の上には、閉じられたままのノートパソコンと時代がかった黒電話。同じ調子の書類棚は収められているものよりも隙間が目立ち、数少ないファイルの背表紙は、蝋色から薄鈍へと変じている。その横に置かれているプリンタは、一体いつの年式のものなのか。


 事務机の正面には擦り傷が目立ち始めたガラステーブル。その脇に置かれた黒いソファに座し、手元の紙束に気怠げな目を落とす瀬津の出で立ちは、この場の主としてこれ以上ないほどに簡素だ。


 黒のスラックスに白のブラウス。それ以外に身を彩るものは何もなく、肌すらもそれに色合いを合わせたかのような、まさしく陶磁器の白だった。時折の瞬きがなければ、彼女を人形と見紛う人間がいても不思議はあるまい。整った目鼻立ちも、それに拍車をかけている。


「最後に入居されていた方が、幽霊を見たと仰ったそうで……それで、ご高名な瀬津さんに、是非」


「お世辞はいりませんよ。私など、道楽でやっているだけの素人ですから」


 ゆっくりと顔を上げた瀬津の声はひどく事務的で、貼り付いた小さな笑みには感情らしい感情が見えない。


「いえ! お世辞などではありません! 神社の方からも、こういうことは瀬津さんにとご紹介いただきまして」


 痩せ気味の瀬津に合わせた空調の温度では、七月の昼の熱気は男には暑いらしい。しきりに汗を拭いながら慌てたようにそう口にした彼を前に、それでも瀬津は表情一つ変えようとしないまま、ゆっくりと口を開いた。


「一つ、お伺いしたいことが」


 小波のような穏やかな声には、何かしらを推し量れるほどの感情はない。声というよりももはや音と呼ぶべきそれにいくらか気圧されたか、男は小さく生唾を飲んだ。


「その女性、周防みずはさんより以前に、その部屋でそういったことはなかった、ということでよろしいでしょうか?」


「え、ええ。そう聞いてます」


 聞いて、瀬津はそっと顎に手を当てた。一瞬、何か思案げに目を伏せ、直後にはすぐさまにまた男を見据えると、


「承知いたしました。この件、当方でお受けいたしましょう」


 それまでと一変、いかにも人好きのしそうな微笑とともにそう答えた。


「あ、ありがとうございます!」


 肉が引っかかってそれ以上折れ曲がらないところまで勢いよく頭を下げた男に、瀬津は見向きもせず、ただそっと、二枚一組の書類――複写式の契約書と払込書を取り出しただけだった。


「着手金はこちらの口座に。着金が確認でき次第、調査を開始致します。他の注意事項はこちらの書類でご確認ください。ご納得いただけましたら、サインをお願い致します」


 恐らくろくに読んでもいないだろう、男の手はすぐさま、淀みなくペンを走らせた。


 往々にして、長ったらしい契約条項などまともに読む人間など少数派だ。男が普段相手をしている顧客もそうであろうし、男もまた、その多数派の一人というだけのことだ。


 瀬津もそう解釈したか、これといって契約内容を改めることもなかった。


「ところで、迫田様」


 ただ、件の部屋の鍵を瀬津に渡しながら、もう一度「よろしくお願いします」と頭を下げ、立ち去ろうとした男の背に、彼女は、


「何故、周防みずはさんは飛び降りたのでしょうね?」


 そう、やや唐突に投げかけた。


 男――迫田はそれに、何ともいえない表情を見せた。そんなことを問われる理由が見出だせないのか、それとも、ただ単にそのことについて思うところがないだけなのか。いずれにせよ、


「さあ、私にはなんとも」


 迫田の返事は瀬津にとって面白みに欠けたらしく、「そうですか」と返したきり、今度は立ち去る彼を呼び止めることはなかった。




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