ホワイト娼館

 彼女は語り出した。

 冷たいトラックの荷台で、車はガタゴトと揺れている。自分とおなじ冷たい目をした女の子たちがそこには数人いて、降ろされるのを待っている。三日目にはすでに彼女以外はいなくなっていて、自分がどこへ向かっているのかさえ分からないでいた。

 知るという行為は内面の発露はつろだ。知りたいと思う事は、心の内側から来る。それをひとは隠したいと思って、ときに無知になり、わからないと嘆く。知りたいという心を隠すのは簡単だ。

 彼女は知りたいという気持ちが、外界への意識が、無くなっていくのを感じていた。

 どうでもいい。

 カイロスは、来た。

 彼女はトラックの荷台から降ろされた。

 夜なのか昼なのかさえわからない。光に反応しなくなった体を、横たえる場所がなくて、壁に寄りかかる。力が足元から抜けていき、馬のように横になる。

 彼女は自分が物体になったと感じて、涙すらも流れなくなった眼を心のなかで凝視している。

 生まれてこなければよかった。

 祖国イタリアから先祖が渡ってきて、大地に根を下ろした一族が生きていくのは難しかった。なにをするにも言葉が満足に通じない、よそ者扱いを受ける、定職につけない。それでも難しい世界で難しいなりに、正直に生きてきたつもりだった。誠実にやってきたつもりだった。

 神はいない。少なくともこの大地には、いない。神は祖国には、きっといたのだ。彼女の先祖たちは神の国の住人だったに違いない。それでもどうしてか、新天地を求めてやってきた先祖を、彼女は馬鹿だと思った。だって馬鹿じゃないか。楽園を捨てて、こんな何もない大地にやってきて――。

 彼女は自分の運命を呪っている。

「起きな」

 白髪の老婆が彼女を起こした。立派で垢抜あかぬけた建物の奥に彼女を連れていく。

 びついたシャワールームで体を温める。体はどんどん温まるのに、心は冷たくなるばかりだ。涙が、ぬるい水と溶けあい流れ落ちていく。タオルで体をごしごしと拭かれた。ふと、はえがむこうに飛んでいくのが見えた。黒い点が次第に小さくなっていく。ずっと先には悪魔が住んでいるに違いない。

 悪魔のにえが、わたしなのだと彼女自身は、悟った。

 ひらひらとしたゲピエールを着させられ、老婆がめつすがめつ眺めた。

「白じゃないね……」

 そうして下着を脱がされる。老婆は黒いものを選ぶ。裸体でいることが自然であるかのように彼女は立ちすくんだ。老婆の前では彼女はマネキン人形だ。男を誘う格好でいることが屈辱的なのに、歯噛みする力さえなく、呆然としていた。

 彼女の格好が決まった。

 部屋の奥の扉がわずかに開く。隙間から三つの目が覗いた。

 ブルーと、ホワイトと、ブラック。

 色素の薄い白い目が引っ込むと、老婆が叫んだ。

「見世物じゃないよ、さっさとあっちへお行き」

「はーい」

 カラフルな駄菓子のような声色が奥へ逃げていく。子どもたちを想像したが、老婆から自分とたいして年齢は変わらないと告げられる。

「ここは、どこなんです……」

「ホワイト娼館。きょうからここで寝泊まりしてもらうよ」

「つまり……」

「男の相手だよ。分かったら、とっとと部屋に行きな。頭のゆるいお嬢ちゃんだね」

 老婆は肩をすくめた。頭はどんどん状況を理解していく。ここが新しい仕事場で、自分の体を売る場所なのだと。体が硬直しているけれど、しびれた腕が徐々に動き出す。彼女に与えられた部屋には年相応の女の持つものであふれていた。

 そのひとつひとつの名は彼女には分からなかった。憂鬱ゆううつな、薄いブルーの寝具や、薄いラベンダーの色のカーテン。ここは人形の家だと彼女は思った。ファンタジィの世界だ。

 彼女はここで男にとってのフィクションとなる。女優や踊り子になって、男を誘い、自らの性器でペニスを包みこむ。頭で分かっていた。ただ、そんな自分を想像するより先に、彼女は農園でのやさしい日々に溺れていた。琥珀色の夕陽が農園を包みこむ。彼女には母らしい母はいなかった。それと同じように父らしい父もいなかった。

 未熟な家族がいた。

 頼れるほど強くない父に彼女は逃げなかった。深く愛することをしない母に彼女は逃げなかった。そうして、父も母も、彼女のなかで溶けていった。彼女を生み出したものに、なにも見出せない。何度も記憶のなかに逃げ込んだけれど、記憶は何も答えてくれなかった。記憶のなかで漂うことが救いだったけれど、彼女が彼女であることは、揺らいでいた。

 彼女の手に包帯が巻かれていた。ふと、柔らかく、やさしく、彼女を扱ってくれた両手と、その温もりを思い出していた。


 姉妹と呼ばれる疑似ぎじ家族を彼女たちは形作っていた。作り物の部屋で談笑している。ライラが外に出ましょうと言うので、緑の蔦で覆われた明るいテラスに彼女たちは歩いていった。ライラがブルーで、エミリィがホワイト、ローズがブラック。というふうに彼女のなかで整理がついていた。エミリィは弱視の女の子で、病弱な姿に惹かれて来る客は多いらしい。エミリィはその連中のことを豚さんと呼んでいて、ライラはいつもその瞳を見つめている。ライラには妹がいたが、性病で死んだらしい。ライラの庇護欲ひごよく残滓ざんしがエミリィに注がれているのは確かだった。ローズはクールで無口な女の子だったけれど、彼女とよく気が合った。

 ローズはいちばん年上だった。だから、彼女やほかの女の子を妹分のように扱った。

 小鳥のさえずりのように、ライラとエミリィが会話をするのを、彼女はじっと聞いていた。彼女の黒髪をエミリィは不吉だと言った。エミリィはよく物が見えていなかった。だけど死ぬ人間が分かるという噂があった。娼館の人間たちは、エミリィを怖がって、近づかなかった。彼女たち自身も、その噂を知っていた。ただ、人形たちはいつ死ぬか分からない。病気をうつされるとか、暴行されて死ぬとか、年長のローズが教えてくれたことだ。

 エミリィの手には本があった。彼女は一瞬だけ、目が見えないのに本が読めるのかと訝ったが、ライラが朗読するものだと思ってその考えを取り下げた。エミリィが本を開く。となりでライラが本を覗き込んだ。ライラは文字が読めない。気づいたローズがエミリィから本を受け取り、朗読を始めた。

「そして、あなたはたとえば『われわれの国では裁判手続きはちがっています』とか、『われわれの国では被告は判決の前に訊問じんもんを受けます』とか、『われわれの国には死刑以外の刑があります』とか、『われわれの国に拷問があったのは、中世においてだけでした』とか。おっしゃるでしょう。それらは、正しくもあれば、あなたには自明に思われもする言葉です。しかし。私のやりかたには少しもさしさわりのない無邪気な言葉です。しかし、司令官はそれらの言葉をどう受け取るでしょうか。あの司令官がすぐ椅子をわきへ押しやり、バルコニーのほうへ急いでいく様子が、私には眼に見えるようです」

 ローズの、低いバイオリンのような声音が、物語を前へ前へと押し進めた。彼女たちは広大なイマジネーションの海を泳いでいる。それはおぼれることのない水で満たされている。きっと甘い水に違いない。蜜のような波間に四人はさらわれていく。

 魂までは、自由なのだ。

 エミリィは音程の外れた声で歌った。エミリィの銀色の髪が風で靡いた。

 その夜、エミリィが死んだ。

 客同士のいざこざに巻き込まれたらしい。当たり所が悪く、頭部から血を流して倒れているエミリィを彼女たちは部屋の外へと運び出した。老婆はぷりぷりと怒っていた。大事な商品を壊されたからだろう。エミリィの死体をローズが冷たい目で見ていた。その視線に彼女は気がつく。ローズと彼女の視線が交わる。ローズが口を開く。

「わたしたちは、ここで生きて、死ぬ。それだけは変わらない」

「でも……」

 彼女の胸から、あるいは喉から言葉は出てこなかった。砂みたいに頭のなかで言葉が形にならずに、ただ消えた。

 その日から、老婆は彼女たちに読み書きを教え始めた。老婆は経営者として人形たちに知性のいしずえを築こうと考えたのだ。おつむがあれば、だいたいのトラブルは回避できる。勘定かんじょうができれば、太客を見つけ出す力がつく。人形たちの態度や動きが変わるはずだと考えたらしい。

 昼は学び舎で、夜は娼館となった。

 ローズはいつも眠たそうにノートを開く。目を擦りながら、ペンを走らせるローズを彼女は観察していた。赤毛の、肩口まで伸びた髪が陽のひかりに照らされている。色素の薄い皮膚、頬、そして首から胸元のなだらかなカーブを目でなぞる。眺めるように自然に。スケッチをするみたいに。外界と彼女を分かつように。

 ローズは気づかないふりを、きっとしている。彼女の視線が熱いものになるまえに教壇に立っていた老婆が彼女に注意する。

 魔法は解けてしまった。時間がいつものように流れ出す。ペンの痕跡こんせきはつぎつぎと知識と言葉を彼女たちにもたらした。

 彼女たちの世界に、この館がある。街がある。都市がある。大地がある。大陸がある。知識は肥沃ひよくな土地となって、彼女たちにさまざまな作物を贈った。


 雨の日だった。

「申し訳ありません……こちらといたしましても、ライラには適切な教育を受けさせるつもりです」

 ライラが客を汚い言葉で罵ったらしい。客はご立腹で、老婆や従業員たちが非礼をびている。

 窓の外の雨脚は激しい。ライラはこれから娼館の奥の部屋でお叱りを受ける予定だ。赤い絨毯じゅうたんが奥の部屋に続いていた。

 彼女は部屋からライラを見ている。ライラは、かつての彼女だった。殴られ、むちで叩かれる。

「ぎゃっ……ぎゃ……ぐっ……うぅ……」

 皮膚に赤い筋が浮かんでも止めさせられない。暴力は雨の音でかき消される。老婆は彼女たちを商品だというけれど、その商品に老婆が手を出す矛盾を誰も追及できない。

 ローズが彼女の肩をそっと叩いた。

「行きましょう」

 彼女が屋敷の広間でソファに座り込むと、どっと汗が出てきた。

 傍らでローズが紅茶を差し出す。

「いい香り」

「ありがと……」

 洋服掛けに、蝋燭ろうそくの火の影が落ちる。

 ソファに座っていたローズが立ち上がる。手を後ろに組んで、雨の降る外を眺める。ローズが口を開いた。

「わたしね、二週間後にこの館を出ていくの」

「……えっ……」

 彼女は唾を飲み込む。ローズは深く息を吸ってから、言った。

「わたしはここから出たら、心にドラゴンと獅子を住まわせて生きるわ。女でいることをやめるの。革命家になる」

 ローズの瞳は相変わらず黒い。見つめていると黒いなかで深淵しんえんに灯る業火ごうかが輝いていた。

「だから、革命を起こしたら真っ先にあなたを、この牢獄から救い出してみせる。約束だ」

「ローズ、好きだよ」

「ありがとう」

 

 彼女に客がついて、さいしょの夜が来た。

 老婆は鼻唄を唄いながら彼女の身支度を調ととのえた。

「客に粗相のないように、ね……」

「ありがとう、おばさん」

「おばさんじゃない。マチルダだ」

「マ……」

 彼女は不器用に口をもごもごさせた。

「これからは、そうお呼び。いいね? 今夜はあんたのデビューなんだ。気を引きしめて、おやり」

 彼女は頷いた。

 部屋に入ると客の男を待つ。蝋燭ろうそくのたどたどしい明かりが彼女の心を映しているようだ。

 外では、月がときどき見えた。いまは暗いところから察するに、月が隠れている。ベッドに座りなおす。体が硬直してうまく動かせない。緊張しているのか。

 扉が開いた。

 客は大柄の男で、脱いだ服と拳銃をテーブルに置くと、彼女をベッドに押し倒した。男は笑みを浮かべ、平手打ちで彼女を殴った。乾いた音がして、痛みで意識が遠のく。ぼんやりと天井を見ていると、男の顔が彼女の顔を覗き込んだ。

 窓から月明かりが漏れた。

 ――それは神秘的な夜だ。

 彼女の腹につんと力が宿った。男をも、獣をも、打ち倒す力が、はっきりと彼女の体に表れた。彼女の視線はどこか遠い場所に投げかけられ、彼女の心は、遠いトウモロコシ畑にあった。

 ものの一秒半。彼女は客の男を蹴り飛ばし、猫のようにくるんとベッドから抜け出した。テーブルに置かれた拳銃を手に取り、脅すこともなく、静かに引き金を引く。

 館で銃声が鳴り響き、館は一時パニックに陥った。度胸の据わった男しかこの状況で冷静ではいられまい。

 彼女は真っ先に表玄関に向かう。途中で、ある部屋の扉が開き、下着姿のローズとすれ違う。ローズは泣いていた。

「どうして! どうして、あなたに力が宿るのが先だったの? わたしだって、ここから出ていくのに。力はそれからだって手に入れられれば、よかったのに!」

 彼女はなにかをローズに言いかけて、止めた。そして、走り去る。階段で音を立てずに下りる。

 表玄関でマチルダが待っていた。

「あんた。逃げられるとでも、思っているのかい」

「わからない。けれど、州境しゅうきょうを抜ければ分からない」

 マチルダは不快そうな笑みを浮かべた。

「余計な知識をつけて……おまえたち、この娘にわからせておやり……」

 銃声とともにマチルダの頬に弾丸が、かすめた。

「おのれぇ、小娘。あんたが手を上げたのは、このあたしだよ」

 彼女は真っ直ぐにマチルダを見つめた。

「二回目は、ない。確実に、おばさんの心臓を撃ち抜ける……」

 彼女の瞳をみて、マチルダは口をぽかんと開く。息が荒くなっている。心の底から怯えているのだ。言いようのない本能から来るおそれだ。

 ホワイト娼館の扉を開くと、彼女は二度と、この館には帰ってこなかった。

 彼女は出ていった先で賞金稼ぎになった。

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